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The Adventure of English 第3回

2013年10月17日

 前回の最後に触れた”やや時を隔てた二つの事件”に話を進める前に、前回から今回にかけての歴史的背景となる当時の英仏関係について概観しておきましょう。

 1066年の”ノルマンの征服”により、フランス王の臣下であるノルマンディー公が同時に England 国王ともなります。フランス王よりも軍事的、経済的に強力な ノルマンデイー公兼 England 王の誕生というよじれた状態の始まりは、英仏関係を争いの種を常時内包した非常に不安定なものにします。

 ノルマン王朝末期の政治的混乱の後に、ウィリアム征服王の孫であるフランスのアンジュー伯アンリが England 国王ヘンリー2世として即位します(1154年、プランタジネット王朝の成立)。その領土はヘンリー2世が承継した England 、ノルマンディー、アンジューに、王妃エレナー(エレアノール、アリエノール)が承継したアキテーヌを加え、England とフランスの西半分を統合した広大なものでした(いわゆるアンジュー帝国)。ヘンリー2世、王妃のエレナーともに母国語のフランス語だけではなくラテン語にも堪能でしたが、英語を話すことはできませんでした。この時代に中世文化を特徴づける”騎士道精神”がフランスから England  にもたらされます。

 ヘンリー2世の後を継いだリチャード1世はその騎士道精神をまさに体現し、在位11年の間に England に滞在したのはわずか数カ月で、第3回十字軍への参加などその生涯は戦争と冒険にあけくれました。

 そのリチャード1世に続くジョン王の時代に、ノルマンディーがフランス王フィリップ2世の支配下に入ります(1204年)。これが最初の”事件”であり、後述するように間接的にではありますが、フランス語の流入に対して防戦一方だった英語の退潮に歯止めをかけることになります。

 ジョン王はアキテーヌ南部(ガスコーニュ)をのぞいてフランスにおけるすべての領土を失いました。その一方で England  に比べ王権の基盤が弱かったフランスでは、フィリップ2世(在位:1180年~1223年)、フィリップ4世(在位:1285年~1314年)の時代に王権の強化が進みます。しかし1328年にカペー王朝が断絶すると、England 国王ヘンリー3世はフランスの王位継承を主張し(1337年)英仏は長期にわたる戦争状態に入ります。これがいわゆる”百年戦争”です。この期間の大部分において England  が優勢でしたが、後にフランスの国民的英雄(ヒロイン)となったジャンヌ・ダルク率いるフランス軍による包囲されたオルレアンの解放は、フランスが最終的な勝利をおさめる契機となりました(1429年)。百年戦争は、England がドーヴァー対岸のカレーを除くすべてのフランスにおける領土をフランスに奪還されて終結します(1453年)。

 尚、ノルマンの征服から百年戦争が終わった15世紀の中ごろまでの期間は英語の歴史上、中期英語の時期に相当します。

< Holding On >

1. フランス人から England 人へ

 13世紀の初めにノルマンディーを失ったことで  England  の貴族達(ほとんどがノルマンディーの出身)は、England 王、フランス王のどちらに忠誠を誓うかという決断を迫られます。自分たちの言語的、文化的ルーツを喪失したことで大半の貴族は England に残り、徐々にフランスを”外国”とみなすようになります。それは裏をかえせば England 人としての意識が彼らの中で形成されていくことでもありました。もっとも、貴族がこの時点ですぐに英語を使い始めた訳でありません。同じくジョン王の治世の1215年に貴族、僧侶、上層の市民は国王の権限を一定の範囲で制限する Magna Carta  「大憲章」の制定を国王に承諾させましたが、この Magna Carta は王国の公文書として従来通りラテン語で作成されました。

 England  とノルマンデイーの切断は、貴族・騎士階級がフランス人ではなく アングロ・サクソンと血縁関係を結ぶことをも促進しました。その際、女性たちは自らの召使や乳母とともに嫁ぎました。「ゆりかごを揺らす手が世界を支配する」 ( The hand that rocks the cradle rules the world.) という言葉があるように、13世紀の半ば以降アングロ・サクソンを母に持つ一部の貴族や騎士の子弟はフランス語とともに英語を習得するようになります。

2.黒死病の襲来

 2つ目の”事件”とは1348年に始まるペスト(黒死病)の大流行による人口の激減です。大陸からの船の積み荷に潜んでいた黒ネズミがもたらしたペストによって、当時約400万人と言われた England の全人口の約三分の一が生命を失いました。

 その結末は破局的でしたが、辛くも生き残った農民にとっては幸運ともいえる状況が出現しました。農作、牧畜に従事する数が減ることで労働の賃金は上昇し、土地の値段が下落したことで土地の購入がより容易になりました。それまでいわゆる小作農だった農民が自作農となり社会的地位が上昇するのに伴って、彼らが話していた英語の地位も向上していきます。支配する側は農民が労賃の上昇を要求することを厳しく弾圧しましたが、完全に押さえつけることはもはや不可能でした。

 又、ラテン語が支配していた教会においても、集団で生活していた僧侶はペスト感染の比率が一般民衆よりも高く、場所によってはその数が半減したことでラテン語を話せない、言い換えると英語しか話せない一般の信徒が礼拝等の儀式を行うようになりました。英語は”神の世界”においてもささやかながら最初の一歩を踏み出しました。

 統治の分野に目を向けると、これまで法廷ではフランス語が使われていましたが、フランス語を話す弁護士が僧侶と同様に多数死亡してしまい、ここでも英語が使われるようになっていきます。

3. The Speech of Kings

  同じく14世紀の後半に英語は教育の場においてもフランス語にとって代わります。英語による教育が広まるにつれて、英語で書かれた本が広い範囲で読まれるようになりました。

 1362年に召集された議会の開会を大臣は英語で宣言しました。このように王国の公式の行事における英語の使用も復活しました。又、14世紀末の時点において断続的ではあるもののフランスとの戦争(百年戦争)は60年にわたり継続中だった為、ついには国王も国民の意思を結集するべく民衆の言葉である英語で国民に語りかける必要性に迫られます。

 1399年にランカスター公ヘンリーが England  国王ヘンリー4世として即位します。その際公式の記録は「新国王が就任のスピーチをその”母国語”である英語で行った」と伝えています。王国の公式行事において国王が英語を使うのは1066年のノルマンの征服以降初めてのことでした。この後もフランス語とラテン語はそれぞれ王国の行事の公的言語、教会の公用語としてその力を維持しますが、英語は王室の言語に返り咲いたのです。

4.内在的要因

 ここまで英語が”二つの事件”によって消滅を免れ、更には England の母国語として復活していく経緯を見てきましたが、これらは外在的要因と捉えることができるのに対し、既に述べた英語自体が持つ”開放性、吸収性”、”柔軟性”を含む”言語としての強さも”内在的要因”として重要な役割を果たしました。

 まず、この期間においても英語の文法の核となる部分はフランス語の影響を受けていません。それどころか英語の基本的構造はより現在の形式に近づき、更に名詞の複数形を表すのに語尾に”s” をつけることが一般化するなど、わずかづつではありますが着実に進化を続けていました。

 次に、フランスから流入した語彙はその数(約一万)だけ見れば圧倒的でしたが、その大半は同じような意味を持つ英語の語彙を駆逐したのではなく補完することになりました。この背景には人々が同義語のそれぞれが持つ意味を純化させることにより思考をより明晰にし、表現をより明確にできる可能性を語彙の多様性の中に見出したという意識の変化があると考えられています。

 上記の具体例として英語を語源とする ask とフランスを語源とする demand を挙げることができます。両者は当初ほぼ同じ意味で使われていましたが、時の経過とともにそれぞれ現在の意味へと変化していきました。同様の例として wish と desire、 room と chamber などもあります。一見すると同じような意味を持つ語彙の中から文脈にあった適切なものを選択することで、明確であると同時に豊かなニュアンスをもつ繊細な表現が可能になります。結果的にフランス語の語彙は英語の語彙をより豊かなものにしたと言えます。。

5.Chaucer

 チョーサーの主たる著作である「カンタベリー物語」(14世紀の末期)はカンタベリーの大聖堂への巡礼に赴く途中に London でたまたま宿を共にした、様々な社会的地位、職業的背景を持つ人々による一夜の退屈をしのぐための連続的な”お話”という形式(イタリアのボッカチオ作の「デカメロン」に着想を得ています)を採用しています。

  彼はこの作品をラテン語ではなく、また、当時の支配階級の言語であるフランス語でもなく英語で書きました。もっとも、「カンタベリー物語」に使われた語彙の内20%から25%はフランス語を語源としています。チョーサーはフランス語が持つロマンティックな響きを意識し、あえてフランス語の語彙を用いたと言われています。

 それにも拘わらず、「カンタベリー物語」は逆境の時期を耐えた英語”、すなわち中期英語の文学的到達点として位置づけられています。社会の縮図ともいえる様々な登場人物に合わせて話し方や語彙を使い分けるという手法は、現代の小説や映画、TVドラマでは当然のこととなっていますが、チョーサーは英語が新たに獲得した表現の能力を十全に使うことによって、早くも14世紀の末に多様な人間模様の描写に成功していました。

 チョーサーは、当時の England において話されていた様々な方言の存在を意識し、自分が使った London の”方言”が北部の住人に伝わるだろうかと心配していました。彼の死後活版印刷の普及(15世紀の中期以降)によって、チョーサーの故郷である London で使われていた方言が中期英語の標準語としての地位を確立することになります。

 チョーサーは、ノルマンの征服以降失われつつあった  England  と English  にたいする国民の信頼を醸成することに成功しました。発表の時点では一部で注目されただけでしたが、時とともにその評価は高まり現在ではチョーサーは英文学の礎を築いた天才と称されています。

 

 これまで見てきたように、最悪の時期を乗り切った英語はEngland の一般民衆の言語としての地位を守っただけではなく、国政、文学の面で第一の言語の地位を取り戻すことにおいても大きな成果を上げました。次回は、フランス語に代わり王国統治の公的言語に復帰した英語が如何に”標準化”いう難題に取り組んだのかがテーマとなります。

 

To be continued.