TOEICの事なら!Best Value for Your Money! English Cabin

すぐ役に立つ、すごく役に立つ天白川のそばの TOEIC 対策専門寺子屋

【English Cabin】TOEIC 対策専門寺子屋

TOEIC公開テスト全問正解でスコア990(満点)を達成した講師がノウハウ全てお伝えします。

お問い合わせはこちらから TEL:052-804-9117 E-MAIL:info@english-cabin.com

The Adventure of English 第8回

2013年11月20日

<  Wild West and Sold Down the River  >

1. Wild West Words

 大西洋沿いの東部の諸州を離れ西部に向かうと、アメリカ英語に対するピリグリム・ファーザーズによる、そして高度な教育をうけ有能、支配的で言語的にも洗練されたその子孫達によるコントロールが及ばなくなります。その西部への大規模な移動を可能にしたのはフランスでした。1803年にジェファーソン大統領(第3代大統領)はナポレオン支配下のフランスからルイジアナ(ミシシッピ川以西の土地)を1エーカー15セント、トータル1500万ドルで購入しました。これによりアメリカの領土がロッキー山脈まで広がり、それまでの倍の面積となりました。現在ではルイジアナの購入は歴史上最も”お買い得”な取引の一つと言われています。

 ジェファーソン大統領は、ルイジアナの購入後すぐに西部への航行可能な水路を見つける為に、メリウェザー・ルイス(Meriwether Lewis)、ウィリアム・クラーク (william Clark) 両大尉以下44名の探検隊をミシシッピ川へ送りました。その際、大統領は毎日探検の日誌を作成するよう命じました。この日誌において新たに約500のネィティブ・アメリカンの言葉が初めて記録されました (hickory, maize, moccasin, moose, opossum, persimmon etc)。この探検隊のメンバーおよびその後に続く西部への開拓民は、東部の人々とは異なりネィティブ・アメリカンの言葉に対してより開放的でした。

 独立時の13州の内、マサチューセッツ (Massachussetts) とコネティカット (Connecticut) の二つだけがその州名はネィティブ・アメリカンの言葉に由来しましたが、領土が西に広がるにつれて  Wyoming  (アルゴンクイン族の言葉で place of the big flats )、Utah (ナバホ族の言葉で  upper land )、Mississippi (チッペア族の言葉で big  river )、Kentucky (イロクオィス族の言葉で  meadow land ) 等が州の名前として使われるようになりました。

 西部への開拓民が初めて目にする壮大な景色や生き物に名前を付ける際、ネィティブ・アメリカンの言葉を借用することは便利な手段でした。又、”本家”に対して”正統な英語”の承継者を自任していた東部人のような意識もなかったことがこの”開放性、吸収性”をよみがえらせた要因と考えられています。同時に大陸のスケール大きさはその表現にも影響します。Tall Talk 「大口」と呼ばれるようになるアメリカ的(大げさな)表現も誕生しました。

 1620年にプリマスに上陸したピルグリム・ファーザーズが Englang の南部と東部出身だったのに対して、西部開拓民はほとんどがスコットランドと北アイルランドの出身でした。彼らは自然災害、高い地代、宗教的な不寛容等により故郷を後にしてアメリカへと渡ってきました。北アイルランドでは人口の約半数がアメリカへ去ったとも言われています。アメリカに到着すると東部の土地は既に先住の移民によって占めらていたので、彼らは西に向かう他はありませんでした。

 又、ミシシッピ川流域にはフランス語の地名が多く残っています。New Orleans, Baton Rouge, St Louis などの他に、フランス語の ville (町や都市的集落)を付けた地名は  Belleville, Abbeville, Jacksonville 等多数あります。これに加えてフランス語の hotel がアメリカで独自の意味を持つようになります。元々フランス語では  hotel は個人の大規模な邸宅や市のことでしたが、アメリカでは一般人向けのやや高級な宿泊施設を意味するようになりました。この”ホテル”の主たる宿泊客が ‘businessmen’ です。現在アメリカでは businessman は経営者・実業家を指しますが、18世紀の England では一般の商人を表していました。

 西部の大動脈と言えるミシシッピ川を行き来するリバーボートでは退屈しのぎとしてのギャンブルが盛んでした。ギャンブルに由来する表現が現在でも使われています。例えば、Pass the buck. 「責任を転嫁する」、You bet. 「確かに、もちろん」、I’ll call your bluff. 「君のはどうせハッタリだろう」、や ace up one’s sleeve 「直訳である袖の奥に隠しているエースのカードの意味から、”奥の手”」、poker face などです。本来は”カードを配る”の意味だった deal もその後、new deal, fair deal, big deal など様々な表現を生みだしました。

 ギャンブルには酒が伴いますが、ここからも   bar-room, saloon, bar-tender cocktail などが19世紀の前半に登場しました。 Bootlegging  「(酒などの)密造、密売」 はネィティブ・アメリカンに非合法に売られていた平たいボトルのウィスキーをブーツ (boot) に隠して運んだことがその語源です。

2.Ok by Me

 世界で最もよく使われている言葉の一つとして OK があります。この由来についてはこれまで無数と言えるほどの主張がなされているようです。Melvin Bragg 氏は「異なった倫理的、政治的、教育的背景を持つ個人毎にそれぞれの説が存在するようだ。」とコメントしています。いくつかその”説”を見てみましょう。

 まず、ネィティブ・アメリカンのチョウトウ族の言葉で  It is so. を意味する OKEH  をジャクソン大統領(第7代大統領、1829年~1837年)が気に入って使い始めたというものです。次に  Boston Morning Post  紙は Ok を all correct  を短縮したものであると報じました。当時のボストンの若者達は言葉の遊びで  All Correct を  Oll Korrect  と書いていました。

 アメリカの二大政党の一つである民主党は次のように主張します。かつて民主党の大統領候補だった Martin van Buren はその生まれ故郷にちなんで、Old Kinderhook   というニックネームで呼ばれていました。民主党は1840年にニューヨークにそのニックネームに基づいて  OK Club を開設し、ここから OK  が広まったのであると。もう一つ政治関連で、当時の上院において議案とするには  Onsllow, Kilbracken 上院議員の署名が必要であり、両者が O.K. と署名したことがその始まりであるというものもあります。

 フランス人はフランスの船員達がアメリカ人の娘と”待ち合わせ”をする際の決まり文句、aux quiex  (at the quayside、波止場のそばで) からきていると主張しますが、ラテン語も負けてはいません。その説では、ラテン語の教師達は従来試験の答案に Omunis Korecta  (全て正しい)と記入していたのが、時にはそれが短縮され OK  となり、それが その後の Ok  の始まりであるということになります。この OK の起源をめぐる戦いにアメリカ軍も参戦します。それによると南北戦争の際、国防省はクラッカーの供給を  Orrins-Kendall  という会社から受けていましたが、そのクラッカーの質がよかった(おいしかった)ので”良質”を意味する OK が肯定的な表現として一般的に使われるようになったということです。その以外にもフィンランド人、スコットランド人、ドイツ人、ギリシア人らが皆独自の見解を持っていて、いずれも譲歩する気配は伺えませんがここではこのぐらいにしておきましょう。

3.Cowboy

 西部が舞台であれば、Cowboy を登場させない訳にはいきません。もし、一語でアメリカ人男性の典型的な理想像を、そして生き様を表すとすればこの言葉以外にはありません。もともと英語では cowboy は数頭のおとなしい動物を世話する文盲の若者のことでした。それがアメリカで多面的、英雄的、象徴的なものへと変容し、アメリカという国家自体が自身を誇らしげに表現する言葉となりました。

 南部のメキシコ国境へと旅するカウボーイ達はスペイン語から多くの語を持ち帰ります。Ranch  「牧場」、ともに野生、半野生の馬を意味する mastang, bronco、や  lariat  「投げ縄」、vigilante 「自警団員」、更に rodeo, fiesta 「祭典」、 wrangler 「乗馬調教師、家畜の世話をする人」などがその例です。

 20世紀に入ると映画の中のカウボーイは世界中の少年の心を捉えることになります。英国では Melvin Bragg 氏のようにカウボーイの話し方をまねして大人にたしなめられる少年が続出しました。カウボーイは少年達に”英語”で話かけました。もっとも、その時既にそれは英語ではなく”米語”だったのかもしれませんが。映画の世界では真実にこだわり、”コルト45”「大口径のピストル」をもった正義を重んじる人間に解決できない問題は存在しませんでした。

3. Sold Down the River

  そもそもは、インド・ヨーロッパ語に属するゲルマン諸語の一つである西ゲルマン語のそのまた一方言だった英語は、これまで見てきたように貪欲さと狡猾さを見事に発揮してシェイクスピアや欽定訳聖書の言語へと発展していきました。その後に続く数多くの輝かしい勝利にも拘わらず、Melvin Bragg 氏の意見では、”奴隷貿易”を通して起こったアフリカ系諸言語との出会いほどその語彙の源泉を端的に特徴づけるものはほとんど存在しないそうです。

 England  はこの奴隷貿易に他の西欧諸国に遅れて参入しますが、直ぐにそれは巨大なビジネスへと成長しました。しかし、国家として最初に奴隷貿易を禁止したのも England でした。英国の議会は1807年に奴隷の取引を禁止し、その実効性を確保すべく海軍が何十年もの間、海洋で奴隷貿易の取り締まりを行いました。

 このアフリカの言語との遭遇は、アメリカでは17世紀の前半に南部の綿花やたばこのプランテーションにおける労働力として多数の奴隷がアフリカから強制的に送られてきたことで始まりました。そのアフリカ人奴隷の3分の2から半数は、現在のノース・カロライナ州のチャールストンでアメリカに上陸しました。この地は黒人にとってのエリス島と呼ばれています。 New York   のエリス島はヨーロッパからの移民が夢と希望を抱いてアメリカに入国する場所でした。その”約束の地アメリカ”の象徴として自由の女神像が建てられたエリス島に対して、チャールストンには1998年に建立された石碑があるだけです。

 尚、現在では不適切な表現として使われなくなった、Negro という語はラテン語で”黒”を意味する  nigrum を、 nigger’  はそのラテン語の表現を語源とするフランス語の nègre に由来しています。

 アメリカに連れてこられたアフリカ人達はほとんど西アフリカの出身でしたが、そこでは約700の地域特有の言語が使われていました。奴隷商人はアフリカ人が集団で反乱を起こすのを防ぐため、必ず異なった言語を話すアフリカ人達を一纏めにしました。そのような環境においてアフリカ人達はコミュニケーションの手段として英語、または、Pidgin  という英語とアフリカ系言語との混成語を使うようになります。後の研究によって判明しますが、アフリカ人は生まれついての語学の達人であり、実際にほとんどのアフリカ人は少なくとも3つの言語を話し、6つの言語を使えることもまれではありませんでした。

 その Pidgin  は南部では Gullah  という 英国人の船員の英語から大きな影響を受けたと考えられる、独自の文法、構造、語彙をもつ言語へと変化しました。その Gullah を起源に持つ語彙の多数が現在の標準英語に入っていきます。 banana, voodoo  ( ‘spirit’ を意味するアフリカの Yorba  語)、などに加え動物の名前として、zebra, gorilla, chimpanzee  その他、 samba, mambo, banjo  etc 。又、アフリカの言語の複合語を英語に翻訳した bad mouth  (悪口)、nitty gritty  (がらくた) 等もその例に該当します。

 もっとも、言語学者達が、黒人の言葉は白人の英語の劣化版ではなく英語の分枝のひとつであり、その分枝自体が幹である英語本体を大規模に変化させることが可能であり、実際に変化させてきたということを理解し、認めるまでには長い時間が必要でした。この変化は実は、9世紀にアングロ・サクソンがデーン人と Danelaw  の境界で交易を始めると、 英語の文法がデーン人の言語である古ノルド語から強い影響を受けたこと(第1回を参照)と本質的に同じものでした。同様の偏見に基づいて、南部において黒人の話し方が白人の話し方に影響を与えてきたという事実も白人は長らく認めませんでした。しかし、この点も白人の幼児が言語の能力を発展させる過程で黒人の乳母から影響を受けることになったのは、かつて13世紀から14世紀の England  においてフランス語を話していたノルマン人貴族や騎士の子供達がアングロ・サクソンの母や乳母が歌う子守歌や口にする英語の表現に知らず知らずのうちに影響を受けたこと(第2回を参照)の再来であると言えます。

 南部の黒人奴隷達は来世の自由だけではなく、現世における自由を約束する精神的な拠り所を英語で書かれた聖書に求めました。ジョン・ウィクリフやウィリアム・ティンダル、ピリグリム・ファーザーズがそうであったように、英語の聖書は今回も精神的自由へと導く媒体となったのです。

 この黒人奴隷の置かれた状況を一変させたのが、1861年4月12日に始まった南北戦争  (The Civil War)  でした。奴隷制度に反対していた北部出身のエイブラハム・リンカーンが第16代の合衆国大統領に就任したことを契機として南部の11州が連邦から脱退し、アメリカ連合の独立を宣言したことにより北部諸州との内戦が始まりました。北軍が最終的に勝利する過程で、先述したアフリカ人奴隷にとってのアメリカ上陸の地であるチャールストンを占領したのはアフリカ系アメリカ人の志願兵からなる第55マサチューセッツ連隊でした。

 この南北戦争で hold the fort  「持ちこたえる」 や on the grapevine  「うわせで耳にする」などの表現が生まれました。後者は南部では電報用のラインを通す際ラインを何重かにして木に縛ったことで、ぶどうの房のように見えたことからきています。

 南北戦争後、4百万人の奴隷が解放されますが、南部の州は白人と黒人の子供の教育を分離するなどアフリカ系アメリカ人の権利を法で制限したため、彼らの大半は産業革命が本格的に進行中で多くの労働力を必要としていたシカゴを始めとする北部の大都市へと移りました。19世紀の終わりから20世紀の初めにかけて、アフリカ系アメリカ人は主として音楽を媒体として英語への影響を強めていくことになります。そして後に触れるように彼らの文化は英語を世界の標準言語へ押し上げることに大きく貢献しました。

 この章の最後に登場するのが様々な職業を経た後に作家として大成功した、マーク・トゥエイン (Mark Twain)  というペン・ネームで知られている Samuel Langhorne Clemens です。Melvin Bragg  氏はマーク・トゥエインを、同時代の様々な人々の現実の生活を題材にした点や、自分の故郷の方言を大切にしたことから14世紀のチョーサー (第3回を参照)になぞらえれています。トゥエインは南部のアフリカ系アメリカ人の力強い英語を1885年の Huckleberry Finn  などの小説に取り入れました。残念ながら出版された当初、北部の都市の中には独立戦争が始まったコンコードのように、「全くの屑で、粗雑で、優雅さに欠ける。」ということで Hukleberry Finn  を締め出す図書館もありました。英語の母国 England  と同様、英語(米語)が州、階級、職業的背景、または個人間の軋轢に利用されるようになるのにそれほど時間はかかりませんでした。

 

次回、英語は母国  England  へ戻ります。

 

To be continued.