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The Adventure of English 第7回

2013年11月13日

 前回、エリザベス王朝期に England は海外進出に乗り出したとお伝えしましたが、今回の舞台となるアメリカへの第一歩は、16世紀の終わりに ウォルター・ローリー (Walter Raleigh) が後にヴァージニア (Virginia)  王室領植民地となるロアノーク島(現在のノース・カロライナ州)において入植を開始したことでした。最初の入植者は全員が消息不明となって失敗に終わりますが、1620年の11月に信仰とともに生きる為の理想の地を求めて、清教徒(カルヴァン派の新教徒)がアメリカ北東部に上陸します。その上陸の地は、England から旅立った地名にちなみプリマスと名付けられました。

1.ピルグリム・ファーザーズを救ったネィティブ・アメリカン

 後にピルグリム・ファーザーズ(Pilgrim Fathers) と呼ばれるその清教徒達はプリマスの地で入植し、マサチューセッツ (Massachusetts)自治植民地の基礎を築きました。彼らを運んだ帆船が  Mayflower  号です。プリマスには20世紀に復元された Mayflower  号が現在も停泊しています。私も一度それを見たことがありますが、大西洋を渡った船にしては小さく感じたことを今でもよく覚えています。

 理想の地に到着したはずの清教徒達は、直ぐに現実の厳しさを思い知ることになります。信仰においては並ぶ者がいなかった彼らですが、その中には農業、漁業などの専門家はいませんでした。又、厳しい冬への備えもほとんどなく、144名の入植者の約半数が最初の冬を生き延びることはできませんでした。

 翌年、突如としてプリマスの入植地を一人のネィティブ・アメリカンが訪れました。彼は英語で「私は Squanto (本来の Tisquantum を短縮したもの)です。」と名乗り、「Welcome 」と挨拶しました。なんと入植者達は”英語”を話すネィティブ・アメリカンに出会ったのです。Squanto は15年前に England の漁師に誘拐されて London へ連れていかれました。そこで彼はガイド兼通訳となるべく英語を教えられました。その後何とか逃げ出してアメリカに戻ってきていたのです。偶然か、はたまた神の摂理によるものかは別にして、Squanto は北米大陸全体で唯一英語をまともに話すネィティブ・アメリカンでした。ピルグリム・ファーザーズは強風に流されて本来の目的地(ヴァージニア)よりもかなり北の地点に上陸してしまいましたが、結果的にそこは Squnato  が属していた部族の居住地の近くだったのです。

 彼こそが  Melvin Bragg 氏によると、この章で最も重要な登場人物です。Squanto は入植者達にその土地に適した農作物や、トウモロコシを育てるのに細かく砕いた魚を肥料として使うことを教えました。入植者に友好的であり英語を話すネィティブ・アメリカンの存在が彼らの存続を可能にしたといえます。翌年の秋、初めての収穫を得たことで、助けてくれたネィティブ・アメリカン達を招いてともに食事を楽しみ、神に感謝の祈りをささげたことが北米の祝祭の一つである感謝祭の起源となりました。

 プリマスへの入植者の中には、オックスフォード、ケンブリッジ大学で学んだ者もいました。彼らは自分達が受けた質の高い教育をその子弟にも施すことを希望します。その結果早くも17世紀前半(1636年)には、プリマス近郊の新しい町であるボストン郊外のケンブリッジに Harvard University が創立されました。 

2.非開放性と硬直性

 こでまで、その”開放性、吸収性”と”柔軟性”によって英語が危機を乗り越え、発展してきた過程を追ってきましたが、ここアメリカの北東部では全く異なった展開を見せます。入植の当初にはネィティブ・アメリカン達と友好的な関係を築きその文化に触れ、又、これまで未知だった動植物に出会ったにも拘わらず、この時期にネィティブ・アメリカンから取り入れた英語の語彙は非常に少数です  (風景に関して、foothill, notch, gap, divide, watershed, underbush, 野生の動物に関して、moose, raccoon, skunk, その他、wigwam, moccasin, tomahawk などです)。ピリグリム・ファーザーズの生活は神の栄光を讃えるための信仰がその中心であり、又、聖書のほかにシェイクスピアなどの作品を携えてきたこともあり、新たな語彙を受け入れる必要性を認めなかったことがその理由であると考えられています。更に、 Squanto と英語で交流できたこともその理由の一部かもしれません。

 口語の面でも、小さな船に乗って新大陸に渡り、小規模な入植地で聖書を繰り返し声に出して読む生活を続けることで、彼らが以前話していた英語の方言は時とともに消えていき、後に東部の標準英語(米語)となるものが形成されていきました。信仰に極めて厳格な清教徒は言葉使いに関しても同様で、不適切な話し方は罪とされました。この言語に対する真摯な姿勢は読み書きの能力を非常に重視することとなり、それが教育に反映します。50人以上の入植地は子供達に読み書きを教えるために、教師を一人供出することが義務付けられました。

 その読み書きの”教科書”となったのが、 The New England Primer でした。17,18世紀に300万部が売れたと言われています。 The Primer はすべての学校に送られ、子供達は正確に読み書きできるように次の内容を暗記させられました。

     A:  In Adam’s Fall, we sinned all.

     B:  Heaven to find, the Bible mind.

     C:  Christ crucify’d, for sinners dy’d.

少し飛ばして

     M:  Moses was he who Israel’s host led thro’ the Sea.  etc

 17世紀の終わりまでに、 England からの入植地は北米の東海岸に沿って約1600キロの範囲に広がっていました。マサチューセッツとヴァージニアに Maryland (1633年)、Rhode Island,  Conneticut (1636年)、New Hampshire (1638年)、North and South Carolina (1663年)、New Jersey (1664年)、Pennsylvania (1682年)が17世紀中に、そして18世紀に  Georgia (1732年) が加わりました。この過程で他のヨーロッパ諸国との戦争が新たな植民地をもたらします。1664年にオランダとの戦争に勝利したことで、それまでの New Amsterdam が New York となりました。更に、 New Sweden は New Delaware となりました。

 18世紀の後半、ヨーロッパにおける列強の戦い(7年戦争)の延長として英仏は北米における主導権を争うことになります。1763年にフランスに勝利した 英国 (United Kingdom) はアメリカの東部沿岸からミシッシッピ川以東の領土を獲得しました。この時期にフランス語から、cents, dime, cache  などが、スペイン語から、barbecue, chocolate, stampede, tornade, plaza  等が英語(米語)に加わりました。

3.Language of America

 アメリカの公用語が英語であるのは、主として英国 (United Kingdom) がフランス、スペイン、オランダなど北米に植民地を有していた他国との戦争に勝ってその領土を拡大していったことによるものですが、北米との関わり方も他の欧州諸国とは異なりました。最初に新大陸に進出したスペインは軍隊と宣教師を送り、金 (gold) を得ることを、フランスは動物の毛皮の獲得と、ネィティブ・アメリカンとの交易を目的としていました。これに対して、England  人 (18世紀には入ると、Scotland, Wales  からも)は最初からアメリカに定住することを目的として祖国を離れたのです。この結果北米における人口の面で、英国出身者は他国を圧倒していました。

 アメリカで英国人(England, Scotland, Wales 人の総称)の人口が増えるにつれて、又、時の経過とともに一部では語彙の面で本国との違いが現れるようになります。例として、英語の shop はアメリカでは store になり、アメリカの pond は英語における lake  に相当するものも含みました。反対にアメリカの rock は 英語の pebble (小石) を表すこともありました。

 先述したように口語の面でも北東部のアメリカでは、母国のように多数の方言が地方ごとに存在する中で一つの方言(例えば London の方言)が標準語として主流となるのではなく、概ね単一の話言葉が使われるようになります。1764年に本国のゴードン卿は、アメリカの北東部において様々な背景を持つ人々が皆”適切な”英語(米語)を話すのを聞いて大いに感銘を受けました。その発音は、London で高等教育を受けた人たちのものに匹敵していたそうです。

 1776年にアメリカは本国から独立しますが、第2代のアメリカ合衆国大統領となったジョン・アダムス (John Adams) は1780年に、次の世紀以降英語が世界の標準言語となるであろうと予測しました。本国からの重税から開放されたアメリカ人はその言語を用いて自分達の新しい国が何を達成できるのか、を考えることに夢中になりました。

 その先見の明があった一人が教師の ノア・ウェブスター (Noah Webster) です。彼が作成した American Spelling Book 又の名を Blue Backed Speller は14セントで販売され、その出版後最初の100年で6000万部が売れ、聖書を別にすると最大のベストセラーとなりました。英語の発展において最も影響力があった本の一つであると言われています。

     She fed the old hen.

     The cow was in the lot.

     She has a new hat.

     He sits on a tin box.

語彙の正しい綴りを学ぶことは幼少期から学校で始まりました。単音節の語は覚えやすいのですが、複音節の語については分割することで記憶がより容易になるとともに、全ての音節を正しく発音することにもつながります。

     A.L ―al P.H.A-pha B.E.T-bet I.Cーic     Alphabetic

 この方法は現在でも使われていて、何百万人もの子供達が繰り返し口に出すことで音節を明瞭に発音できるようになり、アメリカ人は英国人に比較して複音節の語をよりはっきり発音すると言われています。ウエブスターは特に英国上流階級のように母音を省いてしまうことに反対していました。英国人が ‘cemet’ ‘ry’, ‘laborat’ry’ と発音するのに対し、アメリカ人は ‘cemetery’ ’laboratory’ と発音するように教えられます。

 語彙の正しい綴りということに話を戻すと、言葉を正確に書けるということがアメリカ人にとって優れた教育を受けたかどうかの基準となりました。綴りを勤勉に学ぶという姿勢は国中の町や村で、社会、そして個人を向上させる為の生活の一部となりました。国民の多くが夜を過ごす方法の一つとして正しい語彙の綴りを練習していたという事実の中に、アメリカ人の特徴である”自助の精神”が端的に表れています。アメリカ人はこれに真剣にそして楽しみながら取り組みます。この努力することを楽しむ、ということもアメリカ人の属性の一つとなりました。

 ウェブスターは他の改革者達と同様に、”合理性”に訴えました。この結果、語彙によっては英語と米語でスペリングが異なることになります。例えば英語の ‘colour’ と ’honour’ から非合理的な ’u' が除去されました。’waggon’ は ‘g’ が一つになり、’plough’ ((耕作用の)すき)は ‘plow’ ’cheque’  は ’check’  、’masque’ は ’mask’ となりました。

 このような国民全体の言語に対する勤勉さによって、19世紀に入るとアメリカは自らの英語(米語)に大いに自信を持つようになりました。1820年には機知に富んだ決議が合衆国の下院でなされました。それは、将来王国のリーダーとなるべき 英国の上流階級の子弟を言語教育を目的としてアメリカに招待し、その教育課程を修了すると”英語”に堪能であることを証明する証書が与えられる、というものでした。

 この決議に対して英国人の Melvin Bragg 氏は”仮定法過去完了”を使い、

     It could have been very instructive. とコメントしています。

 その決議のなされた1820年までに、アメリカ人は英語の将来は自分達が握っていて、それを洗練させている一方で、(近代)英語の素晴らしい面はそのまま維持していることも自負していました。アメリカ人は既に英語では使われなくなっていた ‘greenhone’, ‘deft’, ‘scant’, ‘talented’, ‘likely’ をその当時(現在)も使い、又、 sick を単に”気分が悪い”と意味だけではなく、病気 (ill) を意味するものとしても使っていました。更に、’got’ ではなく英国では旧式になった ‘gotten’ を好みました。チョーサーの時代の ‘ I guess’  もアメリカで生き延びた表現と言えます。

 

 先述したウェブスターが1828年に同名の素晴らしい辞書を刊行した時、彼は”本国”の上流階級の英語の発音や非合理的なスペリングなどには反対だったものの、この辞書にはアメリカ固有の語彙は50以下しか掲載されていないと主張しました。このようにアメリカの東部では英語(米語)は英国とほぼ同じ軌道を回っていたと考えることができます。しかし西部および南部では事情が全く異なっていました。次回は西部と南部を旅します。

 

To be continued.