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The Adventure of English 第15回

2014年01月07日

<  Warts and All  >

1. Masters and Boys

 清教徒革命を主導し、その革命において王権神授説(Divine right of  kings) の信奉者で絶対主義王政を体現した国王チャールズ1世を処刑し(1649年)、England  の歴史上唯一の共和政期をもたらし(1649年~1660年)、初代の護国卿  (Lord Protector)  となったオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell 、1599年~1658年) は、彼の肖像画がどのように描かれるべきかを打ち合わせていた際に、この章のタイトルとなった、”悪い点も含めてありのままに” (Warts and All) という言葉を残したことでも知られています。英語もクロムウェルの容貌と同様に欠点 (warts)  があり、明るい面だけではなく暗い面にも向き合う為に、この章では“暗黒面”と呼び得る部分に触れることにします。

 Melvin Bragg  氏 はこのタイトルを用いたもう一つの理由として、彼が英語に関して議論していた時に聞いた、ある学生による「英語は素晴らしいが  (great)  、私の出身地では人種差別を助長し、人種への侮辱の手段ともなっています。」との発言を挙げています。英語は、内面的、外面的経験の多様な側面を描写し、詳述することに驚くべき才能を発揮しますが、そこには、ののしり、冒涜、わいせつ、下劣な中傷、そして人種差別も含まれています。

 英語による人種差別は、一部にはその恐るべき急速な拡大の結果でした。小さな島から構成された英国がわずか2、3世代の内に(20世紀委の終わりまでに)その独自性の本質的要素である英語を、アメリカ、カナダ、西インド諸島、南アフリカ、シエラ・レオネ、ガーナ、ウガンダ、マラウィ、ガンビア、ナイジェリア、ザンビア、様々な太平洋の島、シンガポール、香港、オーストラリア、ニュージーランド、インド亜大陸、更に言うまでもなく必須の第二言語としていやいやながら採用したその他の多くの国へと広めたことにより、英国人は何らかの不安を抱き、非常に危険であると憂慮し、そして間違いなくめまいを感じていたはずです。

 多分この章の内容を理解する鍵は、しばしば英語による最初の小説と言われているダニエル・デフォー (Daniel Defoe)  のロビンソン・クルーソー  (Robinson Crusoe)  の中に見出せそうです。クルーソーは、懲罰として彼が漂着した島に置き去りにされた黒人に対してフライデーと名付けただけではなく、自分を ‘Master’  (主人、奴隷の所有者)と呼ぶように教えました。この言葉は確かに多くの黒人奴隷を苦しめました。しかしこの小説が書かれた1719年には、それは  ‘Master’  に他ならず、そして多くの点でその言葉だけでもこれに続く200年の歴史的背景を形作ることになります。

 ’Nigger’  は今や多くの場所において、世界で最も口にすべきではない言葉であると考えられています。同様に、’worthy or ‘wily oriental gentleman’  の頭字語と言われている  ‘wog’  (中東の人間を表す侮蔑語)、スペイン語から来た、’sambo’  (黒人とインディオ、黒人と白人の混血の中南米人)、タミル語(インド南東部の言語)から来た、’coolie’  (インド、中国での日雇い人夫)、’kaffir’  ((南ア)アフリカ黒人)、最初はオランダ人を、後にフランス人を中傷する語となった、’frog’  (カエル)などもあります。’kaffir’  はインドでは英国人を侮辱する言葉でしたが、英国人は南アフリカで他国人に対する侮辱的表現として再利用しました。この種の語彙はいやになるぐらい湧き出てきますが、これらにそれぞれ English  と  American  を馬鹿にする、’pom’  と  ‘yank’  を加えていいかもしれません。

 黒人を侮辱する言葉は、特にアメリカでは最も怒りをあおる言葉でその痛みや傷跡は今もなお残っています。その例が、 ‘Negro’  ‘nigger’  ‘niggra’  ‘thicklips’  ‘Rastus’  ‘Uncle Tom’  ‘cottonpicker’  ‘coon’  ‘hard-head’   そして  ‘boy’  です。

 ’boy’  は表面上は全く無害のようですが、一定の人が、一定の状況のもとで、一定の場合に口にすると、それは耐えがたい恥辱であり、許しがたい中傷となる単語の良い見本です。 Boy!   言語の特徴の一つは、安全な語彙などないということです。 ‘mother’  の例を見てみましょう。今日ある人々によって発言されると、(2語で構成された)4音節からなる侮辱の表現の最初の2音節を意図していたことになり得ますが  、別の人々にとっては全ての語彙の中で最も愛情に満ちた言葉になります。1939年生まれの Bragg  氏の若い頃には  ‘wicked’  はほとんど邪悪な言葉でしたが、彼の子供達にとっては狂乱状態に近いおもしろさを表す言葉となっています(現在でも辞書では、(人、行為、精神)が悪い、不正な、不道徳な、といった悪い意味が最初に記述されていますが、Oxford Advanced Learner’s Dictionary(OALD) ではスラングとして、very good  が載っています)。そのような急速な変化は、言葉というものはその並はずれた精妙さにも拘らず、結局のところ現在の思い、情熱、適切な語彙による統制からはずれた激情などを描写するということを思い起こさせます。そしてそのような荒れ狂う感情は、いましも殺人を犯そうとしている怒り心頭に達した人間のように、最早押さえつけることは不可能となった思いのたけを行動に移す、又は表現する為にどんなことにも、実際にあらゆる対象に手を伸ばすことになるのでしょう。従って  ‘boy’  のように本来”悪い言葉”としては全く不適切のようである単語も、苦境に立った場合には中傷の為の武器として使用し得るのです。

 もっとも、中傷、侮辱は英語に固有の問題ではありません。その理由の一部は、未知の人々の間のあらゆる遭遇を特徴付ける恐怖心からきています。そしてその恐怖心はこれまでの10万年にわたり侮辱の言葉を生みだしてきました。友好的であると証明されるまで、となりの部族はある種の敵とならざるを得ず、相手よりも自分が強いと、又は彼らから安全であると納得する為にその部族を滅ぼすのです。例えば、地球全体で遺伝子プール(給原)の範囲は驚くほど、危険であるとさえ言える程度に狭く、現在の全ての人類はアフリカのわずか数百の生存者まで遡り、そして文字通り一皮むけば人類は寸分たがわず同じであるという知識を持ち、高度に発達し知的な面で複雑かつ進歩的な21世紀になっても、これまでと同様の恐怖心、憤激、そして無知に基づいて同じ悲劇が今日も繰り返されるのです。その知識は、我々が圧倒的な優位性を主張する為に皮相的な相違点を用いることを止めはしません。このことは、英語がそれ自体豊かで、多様で、強力で、成功した言語と言うだけではなく、これらの点では実際にその通りなのですが、生来的に優れた言語でもあると主張し始めた事実の中に見ることができます。

2. International Language

 1848年に堅苦しく、学究肌の定期刊行誌  Athenaeum  において、ある作家が英語について執筆しました。以下その内容です。

「その文法構造の平易性、語尾変化が少ないこと、自然に関する語彙を除きほとんど名詞の性別(フランス語のように、男性名詞、女性名詞を区別すること)を無視していること、接尾辞(ness,less,able,ly  etc)と助動詞の簡明性と正確性、その表現が持つ威厳、活力、豊かさにおいて我々の母国語は世界の標準言語になるべく整然と適応してきたように思えます。」

最後の点についてはその通りでした。残りの点では、全面的には賛成しない人達もいます。

 デイヴィッド・クリスタル  (David Crystal)  教授はその著書  English as a Global Language  で上述した  Athenaeum  を採りあげ、その主張を論破しました。彼は一つの言語はそれを支える政治的、経済的、軍事的パワーによって世界言語となると主張しました。かつてローマ人はローマ帝国内で他の民族より数的に勝るということは絶対にありませんでしたが(大英帝国内の英国人のように)、軍事的に強力だったことを理由としてラテン語は国際的な言語となりました。ローマの軍団、英国の海軍力です。ラテン語はその後ローマ・カトリック教会の公用語となり(第2、5回を参照)1500年間で第2の広がりを見せました。ここには古代ローマが英語で、米語がローマ・カトリック教会であるという類似性もあるのです。

 クリスタル教授は審美的、構造的な性質に何ら言語的な力を見出しません。同じことはこれまで、古ギリシア語、ラテン語、アラビア語、スペイン語、中国語、フランス語についても言われてきました。 Athenaeum の主張を詳細に検討し、彼はラテン語は多くの語尾変化や名詞の性別を有していたにも拘わらず国際的言語となったことを指摘しました。

 その一方でクリスタル教授は、英語が持ついくつかの独特な優位点も確かに認めています。これらは言語の優位性の面でのしばしば“どんぐりの背比べ”と呼べる競争において、現在でも何らかの価値があるのです。彼は英語が過去の何世紀にもわたり数千もの新しい語彙を多くの言語から調達し吸収してきたという理由で、英語が他の言語に対して非常に”友好的”であると指摘します。(この点については、これまで他の言語からの影響を締め出そうと努力してきたフランス語と比較すると興味深いと言えます。) 英語は早い段階から世界市民  (cosmopolitan) のようでした。更に彼は、英語のルーツはゲルマン系の言語にあるものの、この千年でよりロマンス語系の言語となったとも言います。このようにして英語は言語の分野でゲルマン語とロマンス語という最も強力な勢力を結びつけたのです。

3. Coexistence   「共生」

 あらゆる戦争には犠牲者がつきものです。如何にその使い古されたフレーズがいらいらさせようともそれは真実です。英語はこれまで多くの戦いに関与し、それは現在も続いています。これらの戦闘で戦死し、傷つき、時にはそれが致命傷となった言語を偲ぶ巨大なモニュメントを建立することができるかもしれません。ネィティブ・アメリカンやアボリジニの諸言語は、カリブ海から太平洋をまたいだそれらの戦いで降伏したか、退却していきました。もちろん英語だけではなく、ギリシア語、ラテン語、アラビア語、スペイン語も過去に同様のことを行ってきました。もっとも、英語のように世界的に拡張した言語は存在しなかったので、そのスケールでは劣りますが。

 英語にとって一番身近な例がウェールズ語  (Welsh)  です。ウエールズ語はかつてブリテン諸島で広く話されていたケルト系言語に起源をもちます。このシリーズの第1回でお伝えしたように、ケルト系の先住民族は5世紀の後半以降渡来したゲルマン系の民族によって大ブリテン島の隅へと追いやられました。又、この点についても第1回で触れましたが、ケルト系の言語の語彙はわずか数語が英語に取り込まれただけでした。ウェールズ語は永久に片隅に閉じ込められ、ほとんど埋葬されたかのようでしたが、この何世紀かの間にありそうもないくらい幸運で、又いくつか面で類まれなる生き残りの事例として考えることができるようになりました。

 時代を1000年スキップし、1536年と1543年の ウエールズの法規に関する決議  (The Laws in Wales ACT、England  と  Wales における法的平等を表面上装った決議)に目を移すと、そこでは「ウェールズ人は好きな言語を話すことが出来るが、法的権利は英語で宣言(主張)しなければならない…… ウェールズ語を話す者は誰であろうと、England, Wales, その他の王国領において公職に就くことはできない。」と述べていました。もしこれでもウェールズ出身のチューダー王朝(1485年~1603年)による”改善”であるとすれば、それ以前のウェールズ人に対する厳しい服従の強制が伺えます。英語は支配的言語となりましたが、ウェールズ語は持ちこたえ、詩や歌の中にとどまり、降伏しませんでした。

 それでも、締め付けがゆるむことはありません。1847年に英国審議会(Royal  Commision、国王が任命し、法律の運用、社会、教育事情を調査し政府に答申する)は次のように宣言しました。

「ウェールズ語はウェールズにとって大きな障害となっており、ウェールズ人が道理をよくし、商業的繁栄を達成することに対して多面的な障壁となっています。何故なら、その大多数が使うウェールズ語は実用的な知識や技術などの点で英語に劣っているからです。同様に、どこに住もうがウェールズ語では必要な情報を手に入れ、または適切にコミュニケートすることができないので落ちぶれた状態から抜け出すことができません。    ………」

 英国審議会の作成した報告書は青色に装丁された2巻からなるもので、ウェールズでは”ブールーブックスによる背信”  ’The Treachery of the Blue Books’  として知られるようになりますが、それは英語を優位に置くことでより一層ウェールズ語を片隅に追いやる政策を確立しました。この政策は19世紀末の教育条例によって強化されました。それはウェールズにおける全ての子供の英語の能力が一定のレベルに到達することを要求していました。学校ではいかなる状況下でもウェールズ語は禁止され、そのルールを破った子供は、「ウェールズ語禁止  (WELSH NOT)  と書かれた札を首からかけられました。この”ウェールズ語禁止”は抵抗の象徴となりました。

 実際に抵抗は功を奏し、最終的に政治、テロを手段として、そして公務員の対応をより自由主義的にすることで社会の階段をゆっくりと上がって行きました。そしてその戦いは終わらないものの、今では長い歴史を持つウェールズ語の文学は言うまでもなく、ウェールズ語によるラジオ、TV、そして道路、街頭標識があります。その一方で英語による抑圧からは生き延びたものの、英語を話さなければ手に入らない機会を提供するあまりに強力な隣人の存在という問題を抱えています。進歩というよりも保存の為にその民族的資源を浪費しているのではないか、そしてウェールズ語は必須の言語というよりも文化遺産になってしまうのではないかという恐怖感は今も消えていません。実際、益々多くのウェールズ人が英語を話すようになっています。1921年にはウェールズの人口の38%がウェールズ語を話しましたが、1981年にはその数字は19%に下がりました。しかし過去の何世紀にも渡るその不屈の精神とサバイバルは素晴らしいと言えます。今日ではウェールズ語を話す人の割合は上昇に転じています。

 英語の最初の犠牲者だったウェールズ語は英語との共存を実現した初期の事例となっています。英語は他の多くの言語と共存しています。時には、英国人以外の国民によって英国人が取って代わられてしまいます。広がりつつあるコールセンターを例にあげると、かつて英国人がインド人を(国家統治の面で)置き換えたように、そこでは英語を完璧に話すインド人によって英国人が置き換えれています。英語はこれまでも、そして現在も英語を使う多くの人に様々な機会を提供しているのです。

 今や英国は、かつて植民地として支配していた地域からの住民が来訪し居住する場所です。街で、演劇、詩、映画の分野で、西インド、アフリカ、インド、パキスタンの言語はその居場所を見出しています。アメリカ英語(米語)はこれまで何世代もの間、非常に強い影響力を行使してきました。他の地域特有の英語も何とか道を切り開いています。その多様な”るつぼ”は再度かきまわされ、かつては劣位の言語であると考えられていたものが、わずか60年前には想像することすらできなかった語彙や話し方を英語の母国にもたらしています。

 

 次回が最終回となります。

 

To be continued.