The Adventure of English 第11回
2013年12月10日
18世紀の後半に始まった産業革命は、”革命”という名にふさわしく機械の導入によって工場の生産性を劇的に向上させただけではなく、社会構造をも一変させました。発明家の軍団の到来は、かつては夢でしかなかった、汽車、快適な空の旅(熱気球)、一晩中街を照らす電球などを創造し、当時は資産家の特権だった、暖かな住居、好みに合った衣類の選択、旅行なども工業化の進んだ国では大多数が享受できるようになりました。この時期に英語は、”経済発展を推進する世界言語”へと英語を押し上げる契機となる試練と出合い、それに立ち向かうことになります。
< Steam, Streets and Slang >
1. Industrialization and English 「工業化と英語」
他国に先駆けて産業革命を達成し”世界の工場”となった英国が、その成果を対外的に誇示したのは1851年の The Great Exhibition (第1回万国博覧会)でした。ここで英語は”機械の時代”が言語の面で何を生みだしたかを示しました。その展示品のカタログは正に新しい語彙の展示会でした。18世紀にはジョンソン博士に蔑まれ、同時代人の眼中にもなかった”職業”、特に製造に関する語彙が今や英語を強靭なものとします。
発明家にとっては素晴らしい時代でした。彼らが発見した“新大陸”はいたるところで新しい名前、方向性、道標、指標、具体的な位置を必要とし、英語はそれに挑みました。その際、彼らは既に古代メソポタミア、エジプトに始まり中世に発展を遂げた、初期の近代産業とも言える”時計造り”に語彙の源泉を見出しました。産業革命の到来を告げる役割を果たしたハーグリーブス (James Hargreves) によるジェニー紡績機 (spinning jenny) の制作に携わったのは、かつての時計職人達でした。繊維機械で現在も使われてる ’pivot’ (回転軸)、 ‘leaves’ (小型歯車の歯)等の用語は、彼らがhorology (時計学、則時期制作法)から持ち込んだものです。更に、産業革命によって工場で新たな仕事を見出した(元)農民達も、初めて見る製造装置についてその形状に応じてそれまで親しんでいた語彙をもたらします。小型の鋳造器は ‘beetle’ (カブトムシ)、非常に大きな鋳造器は ‘rams’ (雄ヒツジ)となりました。 ‘Pig-iron’ は鋳鉄を小型の枠に流し込む様子が子ブタに乳を与える母豚に似ていたことに由来しています。最後に、’horsepower’ (馬力)という言葉は、蒸気エンジンの導入を検討する際、それが何頭の馬を置き換えることが可能であるかを示すことで購入を促進する為に必要となりました。
現在では、万国博覧会が英国民に与えた工学技術の分野における熱狂的な歓喜とプライドの大きさを理解するのは困難かもしれません。博覧会を訪問した後に記されたヴィクトリア女王の日記にその一部を垣間見ることができます。
「機械展示の部門を訪れそこで2時間過ごしたが、それは非常に興味深く啓発的な経験だった…かつては手作業で行われ何カ月も要したことが今や極めて素晴らしい機械によってほとんど瞬時に完成される。(中略)我々は水圧式機械、様々なポンプ、あらゆる種類の濾過機、砂糖精製の為の機械類 ー 実際想像し得る全ての発明品を見学した。」
女王の日記は更に続き、勉強熱心で大いに感銘を受けた典型的な訪問者の視点から博覧会の秀逸で熱狂的なレヴューを伝えています。
17世紀の終わりまでに多くの語彙が基本的解剖学や数学の分野に加わりましたが、19世紀の初めには化学、物理学、生物学の分野で大規模な語彙の増加が見られました。’biology’ (生物学)という言葉自体1819年に初登場します。その他、’petrology’ (岩石学,1811年)、’morphology’ ((言語)形態論、1828年)、’ethnology’ (民俗学、1842年)、’gynaecology’ (婦人科医学、1847年)、’histology’ (顕微鏡的解剖学、1847年)、など。化学の分野で、’platinum’ (プラティナ、1812年)、’silicon’ (シリコン、1817年)、’caffeine’ (カフェイン、1830年)等。物理学の分野で、’centigrade’ (摂氏度、1812年)、’altimeter’ ((航空)高度計)、1847年)、’voltmeter’ (電圧計)、’watt’ (ワット(電力の単位)、1882年)、’electron’ ((物理、化学)電子、エレクトロン、1891年)等。地質学の分野で、’jurassic’ (ジュラ紀、1831年)、’cretaceous’ (白亜紀、1832年)、’bauxite’ (ボーキサイト、1861年)等。医学の分野で一つだけ事例を挙げると、’claustrophobia’ ((精神医学)閉所恐怖症、1879年)があります。これは新たな語彙で頭の中が埋め尽くされた精神状態を表す為に創造された言葉かもしれません。
これまでと同様に、学術の世界では新しいものに名前をつける場合、”困った時のラテン語”です。今回もラテン語がフランス語を経由して英語に流入しました。’oxygen’ (酸素)、’proteinn’ (たんぱく質)、’nuclear’ (核の、原子核の)、’vaccine’ (ワクチン)などがその例です。又、ラテン語がそのまま英語に転化するのもこれまでと同じです。’opus’ (音楽作品、芸術作品)、’ego’ ((哲学)自我)、’sanatrium’ (保養地、療養所)、’aquarium’ (水族館)、’referendum’ (国民投票、住民投票)、’myth’ (神話)などがそれに該当します。
語彙の一部にラテン語を使うことも相変わらずです。例えば、接頭語として、anthroporo (人間、人類)、bio(生物、生命)、neo (新しい、最新の)、tele (遠い、遠距離の)、接尾語として、logy (言葉、~学、~論)、morphy (~の形態を持っていること)などが使われ、更に多くの語彙が語尾に ize を付けました 。’civilize’ (文明化する)、’organize’ (組織化する、系統だてる)、 ‘realize’ (実現する、理解する)、’recognize’ (認識する)、’summarize’ (要約する)等が語尾に ize を語尾に持つ事例です。
産業革命初期の1750年から大英帝国最盛期(の末期)の1900年にかけて機械、産業、科学技術の進歩に関する論文の約50%が英語で作成されたと見積もられています。蒸気エンジンを発明したジェイムズ・ワット (James Watt,1736年~1819年) がその研究において数学を必要とした時、彼はフランス語とイタリア語を習得しなければなりませんでした。しかし、この時期に英語は科学技術研究の分野で主役となりました。蒸気エンジンによってその生産性が革命的に向上した印刷技術と電信、電話の発明は、これまで以上に情報をより速く、より遠くに伝達することを可能にしました。又、英語は最先端の研究を行う為に英国を訪れた、マルコーニ(Marconi、イタリアの物理学者、無線電信を発明)、シーメンス(Siemens、ドイツの発明家)、ブルーネル(フランスの技師、テムズ川の河底トンネルを開削した)等の技術者のコミュニケーション手段として使われたことで、科学者にとっての共通言語となります。19世紀の前半には小さな島から構成された英国が世界一の貿易、工業国家となりました。いわゆる”世界の工場”です。そして何世紀も発展を続け、吸収、盗用、発明、再構成などの技芸の面で融通のきく英語は、母国の経済的急拡大に見合うものとなったのです。産業革命の申し子である語彙の拡大した英語は、その経済の大発展を推進するエンジンでした。
2.時の流れとともに
英語の歴史において繰り返される特徴の一つとして、語彙をある時代から別の時代へと意味を変化させながら受け継いでいくというものがあります。’chip’ というかつて”木の切れ端”を表した言葉は、現在ポテトチップから20世紀のシリコンチップに至るまで使われています。新しい語の創造に窮した際、身近にある古くからの語彙に新たな装いを施し、何らかの混乱が生じた場合臆面もなく後の世代にその解決を任せるという点に関しては、英国人は何らプライドを持っていないようです。’coach’ がその端的な例です。16世紀には大型の馬車を意味し、19世紀には蒸気船の客室となり、20世紀には長距離バス、旅客機のエコノミー・クラス、そして、もちろんスポーツにおいて自分より才能のある選手に、ああしろ、こうしろと指示をする”コーチ”ともなりました。
これまで何度も登場した ‘industry’ (産業)という語彙には興味深い歴史があります。その言葉は1566年以来英語による記録の中に現れるようになります。”熟練の又は勤勉な”を意味する ’indutrious’、天然と農作物としての果物を区別する為の、’industrial’ も同じく16世紀に遡ります。それが17世紀の末から18世紀には ’industry’ は“現代的”な意味を帯びるようになりました。1848年にジョン・スチュアート・ミル (John Stuart Mill) が、’Indutrial Revolution’ (産業革命)という表現を用いました。
もう一つ産業革命期以降現代に至るまでの変遷をたどる価値のある言葉が ‘class’ です。この間、この言葉を取り巻く社会環境は大きく変化したにも拘わらず、その意味自体はそれ程変容していません。’class’ は古代ローマの市民を財産によって区別したラテン語の ‘classis’ を語源としています。17世紀の England で ’class’ は ‘classroom’, ‘Second Class Honour’ (大学の学位成績で2番目の等級)など教育と結びつくことになります。しかし”社会的階級”という意味では18世紀の中期以降、その後19世紀に入っても、ある意味では20世紀でさえ最も一般的な言葉は ‘rank’ と’order’ (序列)でした。 ‘estate’ (ここでは”身分”)、’degree’ (ここでは”社会的階級””社会的地位”)等も ‘class’ より頻繁に使われる表現でした。これらの語彙は全て個人の“生まれ”と関連しています。
社会の複雑さを描写する他の多くの語彙と同様に、’class’ が”社会的階級”を表すようになる過程は時間を要しました。’The Lower Classes’ (下層階級)という表現が1772年に登場しました。’Middle Class’ という表現の使用 はそれよりも早く1756年に記録が残っていますが、1840年代までには ‘Lower class’ と同じく広く使われるようになります。19世紀の半ば以降産業革命の象徴である蒸気エンジンによって加速されたかのごとく ‘lower middle class’ (中の下)、’upper middle class’ (中の上)、’lower working class’ (下層労働者階級)、’upper working class’ (上層労働者階級)、’skilled working class’ (熟練労働者階級)、’middle middle class’ (中の中)、’upper class’ (上流階級) へと細分化し、更に上記分類に該当しない ‘royalty’ (王族)、’the aristocracy’ (貴族)、’the company of artist ‘ (芸術家の一団)、’vagabonds’ (放浪者、浮浪者)、’thinkers’ (思想家)、’Celts’ (ケルト系住民、ゲルマン系のアングロ・サクソンと比べると、しばしば階級の頚木から逃れました)が加わりました。今日では ‘class’ はその確固たる意味やそれに含まれた辛辣さを失いつつあるようです。
3. Cockney Dialect 「London 訛り」
階級意識の高まりによって訛りや発音がこれまで以上に脚光を浴びることになります。これについては既に登場した、’cockney’ (London子)がよい実例を提供しています。19世紀の終わりには London の人口はエリザベス1世治世下の England の全人口よりも多い450万人に達し、市民の識字率は他のどの地域よりも高く、70%の使用人が 自分の名前を署名でき、英語の書籍の98%が London で出版されました。
1362年、中期英語で書かれた詩 Piers Plowman (農夫ピアズ)では、’cockney’ は”卵”、それもあたかも雄鶏 (cock) によって暖められたかのような小さく形が不ぞろいな卵のことでした。それが16世紀の初めには都市部で育った者を意味するようになり、17世紀の初めには ‘Cockney of London’ 又は、’Bow Bell Cockney’ として London の旧市街 the City のセント・メアリー・ラ・ボウ教会 (St Mary le Bow Church) の鐘の音が聞こえる範囲という特定の地域で育った者だけが真の ’Cockney’ と呼ばれるようになりました。
前回登場した”発音警察”の中心人物、ジョン・ウォーカーは当然のことですが彼らを標的にしました。彼は軽蔑を込めて、「Cockneys という最下層の人間だけが ‘fists’ (握りこぶし)、’posts’ (ポスト) のような語を、’fistiz’, ‘postisz’ のように2音節で発音し、’v' と ’w' をそれぞれ入れ換えることによって、’wine’ と ‘veal’ (食肉用子牛の肉)は ‘vine’ , ‘weal’ となり、’h' を発音しない為 ‘while’ は ‘wile’ (策略、謀略)と区別がつかなくなり、’heart’ や ‘harm’ が ‘art’, ‘arm’ となってしまい、’th’ の音を ’f' で置き換えるので ‘thirty’ が ‘firty’ となり、’thousand’ が ‘fahsn’、’brother’ ではなく ‘bovver’ に聞こえてしまうと述べています。更に文法的にも許しがたい(規範的ではない)二重否定、’There ain’t nuffink te see.’ (There is not nothing to see.) などもやり玉にあがりました。
しかしながら、この ‘Cockney dialect’ は英国を代表する小説家のチャールズ・ディケンズ (Charles Dickens 1812年~1870年)によって永遠の文学的生命を与えられました。ディケンズは人の話し方を ‘class’ を示すものとして捉えた最初の小説家ではありませんが、彼はそれを最も印象的に実践しました。ジャーナリスト時代に培った速記の能力は London の下町で様々な会話を収録することを可能にし、アマチュア演劇で学んだ他人の話し方をまねる技術は人の話しぶり自体がしばしば性格描写となることに結びつきました。彼によってジョン・ウォーカーに蔑まれた、”貧民街の会話”が文芸作品に織り込まれたのです。
この時期に London の外においてもスラング(特定の社会や職業での通用語)が”発音警察”や”文法警察”をものともしなくなりました。Cockney の韻を踏んだスラングが1851年に集大成されました。一つだけ例を挙げると、’trouble and strife’ (禍と争い) は ‘wife’ のことでした。より最近のものとして、’eel’ (うなぎ)を意味する ‘Tommy Steel’ というのもあります。
英語を更に前進させることになった、階級と話し方の相違の細分化に見合った様々な機能や技術の連動から、即ち、階級制度の確立と工業の発展がシンクロナイズしたことで19世紀を産業化の典型的時代として捉えたくなるのは無理からぬことかもしれません。アクセントと発音はあらゆる人間をしかるべき場所に置くことを意図した思えるような、冷徹な区別という名の時として残酷なゲームとなりました。一つの機械化された工場のように、何一つとして偶然に委ねられることはありませんでした。
次回、舞台は”英国の王冠を飾るもっとも美しい宝石”と”英国人”が賛美したインドが舞台となります。
To be continued.