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The Adventure of English 第12回

2013年12月17日

 この章における非常に驚くべき英語の歴史的偉業の一つは、英国によるインド帝国の支配(1877年~1947年、インド皇帝は英国国王が兼任)とともに英語が統治する側の言語としてインドで使われるようになったという事実よりも、英語はそのインド支配が終わった後もインドに浸透し続け、今日10億人の人口を持つインドでは約3億人が英語にある程度精通し、4千万人から5千万人が最も高度なレベルで(ほとんどの場合、第2、第3の言語として)英語を話し、書いているという事実なのです。その一方で英語は嫌悪されもしました。インド最大の政治家、ガンディー (Gandhi)  は英語がインド人を隷属化していると確信していました。このようにインドで英語が直面したのは類のない試練でした。英語は、高度で複雑な文明を発展させ、Sanskrit (サンスクリット語、古代インドの言語、文語)、Hindi (ヒンディー語、北部インドの言語)、Bengali (ベンガル語、インド西部の言語)、Gujarati (グジャラート語)、Marathi (マラティー語)、Punjabi (パンジャブ語)、Kashmiri (カシミール語)、Urdu (ウルドゥ語、パキスタンの公用語の一つ)などの約200におよぶ長期間そして強固に根づいた言語を有し、英国よりもはるかに巨大な帝国(ムガール帝国、1526年~1858年)と向かい合いました。

1. East India Company  「東インド会社」

 英語とインドの間における密接かつ激烈な関係が1600年の最後の日に始まりました。国王エリザベス1世が数人の商人に豊かな香料市場を持つ東洋での独占的取引という特権を与えたのです。当時、東洋最大の市場はジャワ島のバンタムにあり、香料、絹、香木などを買うことができました。この時点ではインドはバンタムへの中継地点に過ぎませんでした。

 その商人達は複雑な東洋社会の王侯などの有力者と出合いました。そこで彼らは卑屈になることを覚る必要に迫られます。それが唯一取引へ至る道でした。その苦労は上述したようにペルシア語(ムガル帝国の公用語の一つ)を含む多くの言語を持つインドにおける様々な”肩書”の中に確認できそうです。その一部を紹介すると、’maharajah’ (マハラジャ、インドのヒンドゥー教徒の大君主)、’nabob’ (大富豪、権力者、およびインド帰りの大金持ちの英国人)、’sultan’ (サルタン)、’caliph’ (カリフ、イスラム教国の教主、首長)、’pasha’ (パシャ、高位の役人)、’shah’  (シャー、イラン(ペルシャ)の王)、’khan’   (カーン、ハーン、アフガニスタン等、中央アジアの王族、貴族の称号)、’nizam’ (ニザム、インドのイスラム教徒の大君主)、などでした。叩頭の礼  (kow-tow、額を地面につける礼)が必要であれば実践しました。粘り強く懇願したおかげで貿易の拠点を、マドラス (Madras)、ボンベイ  (Bombay)、とシュラット  (Surat)  に開設することを許可されました。

 もしインドにおいて英語の進展の真の始まりを記すことになる一つの場所があるとすれば、それは当時小さな村だったコルカタ (Kolkata, カルカッタ (Culcatta)  と英語名に改められ、その後コルカタに戻りました)でした。彼らはそこに繊維工場を建設し、そこから世界有数の貿易都市へと発展することになります。高品質で明るい色のプリントされ織り込まれた布地は英国でまたたく間に成功し、商人達は一財産を築くことが出来ました。その成功の一方で英語は隅に追いやられた存在でした。現地で取引を行うには現地の言葉を習得しなければならず、彼らはインド人のように話すだけではなく現地人の妻を娶り、現地の習慣になじみ現地人のように装うことをも奨励され、それらを実行しました。

 転機は18世紀にいくつかの出来事の集積によって訪れました。英国はフランスとのインドでの主導権をめぐる戦いに勝利します(1757年)。東インド会社は軍隊も併設するようになり、1765年までにムガル帝国は、東インド会社によるインドで最も豊かな地域であるベンガル地方の行政と財政を管轄することを公式に容認するようになりました。

 この時期にインドの諸言語と英語との間の根源的な関係が、アマチュアの学者であり最高裁判所判事でもあったウィリアム・ジョーンズ卿  (Sir William Jones)  によって発見されました。彼が古代の書き言葉であったサンスクリット語に注目することで、サンスクリット語と他のヨーロッパ言語の一連の本質的結び付を実際に見出したのです。その”根源”の部分は時代を遠く隔てた当時既に使われていなかった親となる言語から別の言語へと受け継がれていました。このようにしてサンスクリット語で“父”を意味する  ‘pitar’  は ラテン語では ‘pater’  となり、ゴート語((ゲルマン諸語の一つ)375年、ゲルマン民族大移動の発端となつた最初にローマ帝国領内に侵入したゲルマン民族の一部族が話していた言語)では ’fadar’  と変化した後に、英語では ‘father’  となりました。次に動詞でさえ表記に共通性があるようです。、英語の ‘is’  、はゴート語では ’ist’、ラテン語は ’est’、ギリシア語は ’esti’ サンスクリット語では ’asti’   です。

2.  Raj    「インド統治」

 ジョーンズ卿の偉業はさておき、英国人はインドでその地位を固めるにつれて優越的立場を意識するようになります。インドの習慣や文化を敬うことはおおむね忘れ去られました。この新たな状況の心理的重みを考慮すれば、極めて少数の英国人がインドを統治するにはこれは無理からぬことであったのかもしれません。インド人に対する優越的立場は宗教によって正当化されました。英国人の目に映ったインドの暗黒的で血なまぐさい迷信は、慈愛に満ちたキリスト教の光と真実によって変える必要があるとされました。その結果として当該目的達成のために宣教師の派遣、ミッション・スクールの創設が実行されました。相当数のインド人に英語をもたらす最初の組織的な動きでした。これが、ヒンドゥー語で王国や統治を意味する、Raj の精神でした。

 インド人の間には争いはあったにせよ、少数ではあるものの影響力のあるグループが西洋の思想、とりわけ科学と技術面に感銘を受けました。彼らは英語がそれらの知識の利用を可能にするだろう、そして、ヒンディー語、ペルシア語、サンスクリット語よりも優れてはいないにせよそれらとともに学ぶ価値があるかもしれないと考えました。それ以来しばしば強い反対はあったものの、英語が彼らにとって非常に有用であると捉える社会的影響力を持つグループが常に存在しています。英国は英語の習得をインド人に課すべきもの、即ち、啓蒙の為というより支配の手段にしたいと望んでいました。

 1835年にカルカッタの作家、歴史家、最高裁判事であったトーマス・バビントン・マコーレー (Thomas Babinton Macaulay)  は、後に悪評を呼ぶ覚書を記しました。それは何故インド人に英語を教えるべきかを具体的に説明していました。これがその後の方向性を決めるものとなります。その一部を見ると、

「私は喜んで東洋人自身が持つ価値に応じて東洋について学ぶ用意がある。もっとも、私は東洋人の中で書斎の一棚分の優れたヨーロッパの書物はインド語、アラビア語による全ての書物に勝るという点について否定する人に出会ったことはない。我々は現時点で彼らの母国語によっては啓蒙できないインド人を教育しなければならない。我々は彼らに何らかの外国語を教える必要がある。英語の必要性についてはほとん繰り返すまでもない。英語は西欧の言語の中でも卓越している。」

 マコーレーによると、英語の卓越性が英国の世界帝国としての役割を可能にしたことになります。インド人の事務員 (writers  と呼ばれました)が帝国支配の目的で徴用されました。英語を話す下級のインド人官吏が必要とされ、彼らを収容する為にカルカッタに巨大なビルが建設されます。英語は彼らに押しつけられたにせよ、多くの場合インド人によって熱心に習得されました。以降、インドの知識人の間で英語はなんら苦労なくして増殖しているかのようです。その反面、英語によって正式な教育を受けたインド人はほんの一部だった為、英語は特権的で官吏への登用の道を開く言語であり、必然的にエリート主義的でインド人の間に不和を生じさせる言語となりました。しかし、この英語を話すインド人の官僚機構なくしてインド統治は不可能だったはずです;これがインドの知識人にとって消えることのないパラドックスとなりました。

 英語を話すインド人官吏の増大と歩調を合わせて、英国人の官吏の間で新たに就任したインド総督がレポートを読んでも理解できない程度までスラングと言葉遊びが蔓延していきます。英語と、特にヒンディー語の間の牽引が強くなっていきました。1866年にはインドの諸言語から取り入れた英語の語彙を集めた900ページにおよぶ、’Hobson Bobson’  が出版されました。Hobson Bobson  とは軍隊用語でイスラム教徒が行進の際叫んでいた、’Ya Hassan,Ya Hassayn’  が崩れたものです。今では言語学者にとって、ある言語を話す者の言葉が別の言語を話す者によって、この事例のように崩されていくことを意味する表現となっています。’khakee’ (khaki、カーキ色)  はこれに掲載されている最も有名な単語の一つです。

 他には、’amok’ (錯乱状態)、’avatar’ (具体化、具現)、’bandanna’ (バンダナ)、’candy’ (キャンディー)、’cashmere’ (カシミヤ)、’guru’ (導師、権威者、専門家)、’jungle’ (ジャングル)、’karma’ (業、カルマ)、’panda’ (パンダ)、’yoga’ (ヨガ)などもあります。これまでと同様、新たな物、経験、思想やニュアンスを描写する為に、大洋を超え新たな大陸に渡る過程で遭遇した全ての言語から貪欲に言葉を吸収し、英語は語彙を永久に増殖し続けます。そして後に英国で一番人気のある料理となる ’curry’  (カレー)と出合ったのも、ここインドでした。

3. English remains and thrives

 英語とそれを通して学んだ民主主義などの思想が英国に対する革命を生み出したと信じている人々がいます。ちょうど、英語が大英帝国の代理人としてインド人官吏によるインド統治を可能にしたのと同じように、英語はインド人が英国に対して反旗を翻す手段となる要素をも含んでいたのかもしれません。作家で詩人のラドヤード・キプリング(Rudyard Kipling,  日本でも有名な”ジャングルブック”の作者)は、インド人の間で民族主義の運動が発展していくのを目の当たりにした際に、英語がその運動に自信を与えていると恐れました。

 1908年、ガンディーはいずれ雪崩を引き起こす重要な端緒となるべき小冊子を書き上げました。彼は法律や軍事的、商業的支配についてではなく英語に論を絞ったので、その小冊子はこの英語の歴史物語にとって興味をそそられる内容になっています。彼は「自国の統治に関して外国語を使わなければならないということは悲しい現実ではないでしょうか。」と述べています。そしてガンディーはこの考え方を独創的で革新的な結論へと導きました。:「私はこの事実に対して英語を、それとも自分自身を責めるべきでしょうか。インドを隷属させたのは我々英語を話すインド人なのです。民族によるのろいは英国人にではなく我々に注がれるでしょう。」 

 そのガンディーが独立後のインドの将来像を描いた時、英語は完全に締め出されます。英国のインド統治(Raj)の終焉(1947年)は英語の緩やかな死をもたらすと考えられました。新たな憲法は公的言語としての英語の使用は1965年までで、その後は全面的にヒンディー語に置き換えられると規定していたのです。

 そのようにはなりませでした。これには多くの理由があります。多言語国家のインドではヒンディー語を話さない国民からヒンディー語の優越的地位に対して強い反対がありました。ヒンディー語への反対と英語を公的言語として残す為に、街では暴動が発生しました。現実的に英語は出世や身分の体系に深く根付いていました。

 英語はインドから多くを吸収しましたが、インドは英語全体を単にもう一つの言語として取り込んでしまいました。最初にお伝えしたように、今日のインドでは人口の約4%から5%が英語を流暢に話します。その比率だけを見ると取るに足らないように思われますが、10億人の人口を持つインドでは4千万から5千万人という巨大な数字となります。英語版の The Times of India  は本国の3倍読まれています。インド統治は60年以上前に終わりましたが、英語はそこに今も留まり繁栄しているのです。

 

 次回も舞台は”インド”ですが、そこは遠く離れたカリブ海の“西インド”です。

 

To be con tinued.