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The Adventure of English 第6回

2013年11月06日

 今回の時代背景となる16世紀の後半から17世紀の初頭は、概ねチューダー王朝最後の君主となるエリザベス1世の治世下(在位1558年~1603年)にあり、後に理想化されてMerry England (陽気なイングランド)と呼ばれることもあります。チューダー王朝はプラタジネット王朝末期の王位継承をめぐる争い(バラ戦争、1455年~1485年)を経て成立しますが(1485年)、その過程で主要な封建貴族が没落したため、国王による中央集権体制(絶対王制)が確立した時期でもありました。尚、英語の歴史という観点ではこの時期の英語は近代英語と呼ばれています(初期近代英語、15世紀の後半から17世紀の中頃まで)。

 エリザベス1世は他の西欧諸国に比べて出遅れていた海外への進出を奨励し(海賊行為も奨励しますが)、England の商人はヨーロッパ大陸へ、インド、東アジアへ、更には新大陸へと向かいました。国内ではヘンリー8世が収用したカトリック教会、修道院の土地を払い下げたこともあり、ジェントリーと呼ばれた新興の地主階級、そしてヨーマンと呼ばれた自営農民層が形成されます。彼らの一部はこれまでも England の主要な産業だった毛織物業を大きく発展させ、毛織物はヨーロッパ大陸への重要な輸出品となります。又、この時代の人口増加と牧羊のために農地から小作農民を締め出したことで(第1次囲い込)大都市 London への人口流入が加速しました。

 国王による中央集権体制の確立により、王国を運営し、拡大するための官僚機構と常備軍の整備が進みました。ジェントリーやヨーマンの中には家を離れて官僚や軍の士官、更には学者、法律家等を目指す者も現れ、王国を、後には”大英帝国”を献身的に支えるミドルクラス層が貴族の下に形成されていきました。これにより、これまでの地方ごとに存在していた方言による英語(の話し方)の違いに加えて、これ以降”階級”による英語(の話し方)の相違が見られるようになります。

 海外へ赴いた商人や船乗り達は、海外の特産品と伴に海外の言葉も持ち帰りました。又、貴族や学者、芸術家も大陸、とりわけ当時文化面で最先端の位置にあったイタリアを目指すようになります。彼らは母国で見せびらかすための高価な装飾品等だけではなく、イタリアの建築、美術、文学、音楽に強い感銘をうけたことで、それらに関する語彙をも”おみやげ”として帰国しました。

 学問の分野では15世紀にイタリアで最盛期を迎えたルネサンスが、15世紀の後半以降アルプスを超えて他の西欧地域へと広がりを見せた時期とも重なります(北方ルネサンス)。火薬、羅針盤とともにルネサンスの三大発明の一つである活版印刷術がその普及に大きな役割を果しました。”ルネサンス”(語源はフランス語)は過去には文芸復興と訳されていたように、当時の人文主義者(Humaniste、 英語ではHumanist) として総称される、思想家、科学者、芸術家は古代ギリシア語とともに、古代ローマ時代の古典的ラテン語を模範とするようになりました。

<  Waiting for William Shakespear  >

1.A Renaissance of  Words

 17世紀に先立つ30~40年の間に、英語は生まれ変わった言えるほどの新たな展開を見せます。変化の要因は過去のデーン人やノルマン人と同様に”招かれざる客”として海外から訪れました。1588年にスペイン国王フェリペ2世は、支配下にあったオランダ(England の毛織物の主要な輸出先でした)の独立戦争を支援し、更には自国の商船への海賊行為を公然と行っていた England を懲らしめるべく”無敵艦隊”を送りました。 当時のスペインはポルトガルを併合し、歴史上最初の「太陽の没することなき帝国」としてヨーロッパ随一の強国でした。この勝ち目の薄い戦いを、Melvin Bragg 氏によると、神の加護と幸運とより優れた躁船技術のおかげで England の海軍(というよりも海賊)は  Armada (無敵艦隊)を撃破します。

 この(想定外の)大勝利は、England  の海外進出に対する自信を深めることになりました。海外で取引を行った商船は、膨大な輸入品とともに膨大な語彙ももたらしました。エリザベス1世と次のジェイムス1世の時代に新たに1万から1万2千の語彙が英語に加わったといわれています。これまでとは異なり、新たな語彙は”国際的”でした。まずフランスは依然として第一の”仕入先”でありこの時期に、crew, detail, passport, explore, progress, volunteer, equip, ticket , etc が英語に入ってきました。スペイン・ポルトガルからは、banana, guitar, hammmock, hurricane, mosquito, tobacco が、オランダから、smuggle, yacht, cruise, reef, knapsack, landscape, etc。更にマレーから Bamboo、ペルシャからイタリア語を経由して bazaar が、フランス語を経由して caravan が、トルコからフランス語経由で coffee と kiosk が、アラビアからは alcohol といった具合です。このように約50カ国からの語彙が短期間のうちに英語に加わりました。イタリアに旅した貴族、学者、芸術家は balcony, fresco, villa (ラテン語)、cupola, portico, piazza, miniature, design, opera, violin, solo, sonata, rocket  等を持ち帰りました。

 しかし興味深いことに、過去に聖書をラテン語から英語へ翻訳することに貢献し、宗教の分野でラテン語の地位を失墜させたオックスフォードやケンブリッジ大学の学者達が今回は(古典的)ラテン語の復活に力を注ぎます。ルネサンスの影響を受けた学者(人文主義者)はラテン語を、優れた古典的思想、科学、哲学を伝える言語とみなしました。又、過去(第2回)にお伝えしたように、ラテン語はヨーロッパの学者にとっての公用語でもありました。 England が生んだ最高の人文主義者といわれているトーマス・モアは「Utopia (ユートピア)」を1517年にラテン語で出版し、英語に翻訳されたのは1551年になってからでした。

 この一見してよじれた現象は結局のところ、聖書において英語がラテン語に”勝利した”ことの裏返しであるとも言えそうです。ラテン語はもはや教会と結びついた抑圧的なものではなくなりました。これまでのように英語がラテン語に浸食されたのではなく、英語がラテン語を侵食する立場になったのです。

 この時期に  cautionary, frugal, specimen, manuscript, premium, encyclopedia, absurdity, chaos, crisis, climax など数千の語彙を英語はラテン語から吸収しました。

 ルネサンスの時代に中世の初期、中期を通じて停滞していた医学や科学が文芸とともに復活しますが、その研究再開にあたり学者達が最初に参考としたのは多くの場合においてラテン語(とギリシア語)で書かれた古代の文献でした。又、彼らがその成果を発表する際使用したのもラテン語でした。今日でもギリシア語やラテン語を起源とする語彙は身近なものになっています。 internet, audio, video などがその代表的な例です。

 過去に、”ラテン語の持つ品格”という表現を使いましたが(第4回を参照)、当時の(そしてそれ以降も)学者はその専門分野だけではなく、ギリシア語やラテン語においてもエキスパートであることに誇りを抱いていました。18世紀の末に天文学者の William Hershel  が太陽系の新たな惑星を発見した時、彼は当時の国王に敬意を表し George’s Planet と命名することを考えていました。しかしそれではやや通俗的にすぎるというきらいがありました。特定の国王の名前を惑星の名とすることには他国、特にフランスが反対するとも予想されていました。そこで、ラテン語の助力を得てその惑星は Uranus (天王星)となりました。

 更に興味深いことに、このいわばラテン語ブームともいうべきものが学問の世界を超えて一般の語彙にも影響し始めると、Inkhorn Controversy (インクホーン論争、インクホーンとは角でできたインク入れのことですが、学をひけらかす、衒学的、という意味もありました)と呼ばれた論争が起こりました。ラテン語の語彙を積極的に英語に持ち込むグループに対して、英語の起源はゲルマン語(及びそのアングロ・サクソンの方言)であることを強調するグループが異を唱えました。この論争は学会を超えて大々的なものとなり、非常に熾烈だったようです。

 これまで英語の歩みを見てきた我々からすると、英語の純粋性を意識すること自体に違和感を覚えますが、英語の本質的属性となった”開放性、吸収性”と”柔軟性”をコントロールすることはもはや不可能でした。

2. Preparing the Ground

 England で最初の辞書  The Table Alphabetical   が出版されたのは1604年でした。ちなみに、英語の dictionary はラテン語の  dictionarius を語源としています。この”掌サイズ”の小さな辞書に掲載されたのはわずかに2543語で、その大半がラテン語を語源とするものでした(日常よく使われる語は掲載されていません)。一語だけ例にとると、Argue は “to reason” と説明されていました。この辞書の作者である  Robert Cawdery  は、聖書を読む上でこの辞書が一助となることを目的としていました。即ち、これは学者にではなくジェントリーや知的向上心を持ったヨーマン、一般市民に向けられていました。1600年までに約350万人の England の人口の約半数(少なくとも都市部においては)が、読み書きができるだけの最小限の教育を受けていたとも言われています。

 同時に、英語に対する自信を深めた貴族やジェントリーは、他の西欧諸国に遅れをとっていた文芸の分野においても追い付き、そして追い越すことを決意します。チョーサーの偉業は否定できないものの、その英語は既に大半が使われなくなっていました。先述した貴族等によるイタリアへの旅で、彼らは詩的表現がイタリア語を洗練させていることを強く意識しました。そのような環境において13世紀以来イタリアとフランスで流行していた、ソネット(Sonet、14行詩)が England  でも注目を集めます。

 ソネットはその語順と配置について厳格な規則を持ち(押韻構成や強弱五歩格などと聞いただけで頭が痛くなりそうです)、制限が多いにも拘わらずエリザベス王朝期の廷臣達はこぞって自作のソネットにおいて他に抜きんでることを競いあいました。ヨーロッパの列強の一つになりつつあった  England  が、その言語に新たに獲得した自信を反映させる役割を貴族や騎士が担うことになります。それは”剣とペン”の時代の到来でした。その代表が England 有数の名門に生まれ、スペインとの戦いにおいて31歳の若さで戦死した  Sir Philip  Sydney でした。戦場に倒れた  Sydney が「私よりも君のほうがこの水を必要としている」 と言って自分の水を他の傷ついた兵士に譲ったことは、更に彼の名声を高めました。

 Oxford English Dictionary  には2225の Sir Philip Sydney からの引用が記載されています。彼はより感情に訴えるために、二つの語を結ぶことを好みました。 ‘milk-white’ horses, ‘well-shading’ trees, ‘far-fetched’, などがその例です。以降、 Sydney の残した詩が”高尚な”英語の基準点となります。

 このように宮廷において英語がその洗練の度合いを高めていくにつれて、市井の言葉との乖離がより大きくなっていきました。一般人の使う英語に関して、なにが「正しく適切な話し方」なのかという現在まで続いている議論が始まったのがこの時期です。更に、16世紀の間に方言が幾分なりとも粗野なものと見なされるようになります。一方で London では”下町のスラング”も発達し始めます。

 William Shakespear は上述した宮廷での言葉、下町でのスラングと彼の故郷の方言をすべて取り入れて作品を創りました。 当時の London では市民の娯楽として演劇が人気を博していました。その中で1583年から宮廷による The Queen’s Men と呼ばれた劇団員達が全国巡業を開始しました。彼らは様々な階級の観客に語りかける為に、上流階級の言葉でも、下町のスラングでもない”劇場の言葉”を使うようになりました。キャパシティが3000~3500人の劇場、The Glove は1599年に完成します。 更に、The Glove に匹敵する劇場が他に五つできました。 Shakespear を迎える舞台は既に整っていました。

 3. Shakespea’s English

 いよいよ登場したシェイクスピアですが、ここでは主として英語との関係について紹介するにとどめます。シェイクスピアは歴史上最高の作家であっただけではなく、50以上の言語で作品の主題となった、これまででもっとも”書かれた”人物でもありました。詳細な伝記、評論等は他で読むことができます。

 彼が生まれた当時(1564年)  Stratford-upon-Avon  の人口は約1500人で、誰もが顔見知りのような町では様々な人々の生活をまじかに目にすることができたはずです。その受けた教育については確たる記録は残っていませんが、地元のグラマースクールでラテン語を学んだといわれています。そして当時は強制でもあった教会での礼拝に通ったことで、牧師の話す聖書からの文言を、即ち、前回登場したティンダルによる文語として最高の英語を耳から学んだと考えられています。

 1590年代の初期に俳優兼作家として London に移ったシェイクスピアは、オックフォード、ケンブリッジ大学で学びその才能を競い合っていた俊英達を尻目に早くもソネットでその才能を発揮し始めます。彼は当時の標準語となっていた London の方言をマスターしますが、同時に宮廷で使われていた高尚な英語も、彼の故郷のミッドランドの方言も自由自在に使いこなしました。そして10年もしないうちに当代一の作家となり、その生涯で38の戯曲、154のソネット、及び詩を残しました。

 シェイクスピアの作品には少なくとも21000の語彙が使われました。これに対して、1611年の欽定訳聖書に登場するのは約10000語であり、シェイクスピアの時代から400年後の現代の平均的教育を受けた人が実際に使っている語彙数は10000語以下と言われています。その現代の語彙の内、約2000はシェイクスピアの作品で初めて登場しました (obscene, accommodation, leap-frog, lack-luster, courtship, indistinguishable, reliance etc )。

 Oxford English Dictionary  には To be or not to be, that is the question を始めとして約14000のシェイクスピアの作品からの引用が掲載されています。20世紀中に300回以上映画化され、United Kingdom で生まれ育ったほぼ全員が少なくとも一つのシェイクスピア作品を読んだか、または演劇を見たことがあると言われています。

 シェイクスピアの時代に英語は新大陸(アメリカ)に渡ります。シェイクスピアは言葉だけではなく、思考と感情の両面において生活に彩を添え、光と奥行きを与え、そして描くための洞察力を以て、新世界を私たちに届けてくれました。彼はかけがえのない価値を持ち神秘的な能力である創造力を、極限まで駆使しました。 

 A Midsummer Night’s Dream の最後に Thesues は言います。

    And as imagination bodies forth

    The forms of things unknown, the poet’s pen

     Turms them to shapes, and gives airy nothing

     A local habitation and a name.

 

 次回舞台はアメリカに移ります。

 

To be continued.