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The Adventure of English 第13回

2013年12月24日

 今回の舞台は西インドですが、ご存知のようにその名前は誤解から始まりました。1492年にヨーロッパから西周りでインド到達を目指していたコロンブス  (Christpher Columbus)   は、その航海が2カ月を超えたので無理からぬことかもしれませんが、目的地に到着したと考えその(カリブ海の)住民をインディアン  ‘Indians’  と名付けました(その地名も西インド諸島となります)。ヨーロッパ人が太平洋の存在を知るのは1513年になってからでした(スペインのバルボアが現在のパナマ地峡から南西に広がる太平洋を発見しました)。ここでカリビアン  (カリブ海の、カリブ人、Caribbean)  とは現地人の言葉で一部族の名前である ‘Carib’  に由来します

 そもそも、どのようにして英語とクレオール語( Creole,  ヨーロッパ言語と非ヨーロッパ系言語の混合語)が西インド諸島に広がっていったのかについて明確に全体像を捉えることは困難です。その地域における一般的な英語の歴史は特定の島ごとに数十にも分断されています。更に理解を困難にさせる要因として、西インド諸島とその周辺領域に英語が広がる過程と、そこで英国の政治的支配が拡大していく歴史が必ずしも一致していないことが挙げられます。

 これは全体としては驚くべきことでもありません。一般に”西インド諸島”と一まとめにしていますが、そこは最大1千マイル(1600キロ)に及ぶ大洋で隔てられた何十もの固有の地域の集まりなのです。 ー この事実自体ダーウィン  (Darwin)  がガラパゴス諸島で証明したように多様性を基礎づける具体的な原因となっています。更に、England  だけではなくスペイン、ポルトガル、フランス、オランダ出身の定住者と、多種多様な言語を持つ何十万人ものアフリカ人の集中的な強制移住という要素も加わります。又、それらの混合という各々の交流に基づく言語的発展もあるからです。

<  West Indies  >

1. English Sea Dogs   「カリブの海賊」

 カリブ海への進出という面で England  は出遅れました。16世紀になるまでに、”新世界”においてスペインとポルトガルはその地位を確立し、この地域で既に始まっていた奴隷制度を支えるべくポルトガルの商人は西アフリカからアフリカ人を送り込み、スペイン人による無慈悲な対応と様々なヨーロッパ(旧世界)の病気は現地住民の人口を著しく減少させ、又、いくつかの事例では全滅させるという結果をもたらしました。

 当初、England はカリブ海でドレーク  (Francis Drake)、ホーキンス  (John Hawkins)  及びエリザベス女王の暗黙の了解を得たその他の海賊が、財宝を積んだスペイン船を襲撃することを”主要なビジネス”としていました。この時期に英語が新たに取り入れた語彙として、’doubloons’  (スペインの金貨)、’pieces of eight’  (スペインの銀貨)があります。又、1589年に出版されたハクルート (Hakluyt、England の地理学者、歴史家)が船員(海賊)から聞いた話を集めた  ‘Voyages’  (航海誌) に収められた1564年のホーキンスの談話には、現地人の語彙から採り入れた ’maize’  (トウモロコシ)、’potato’  (ジャガイモ)、’cannibal’  (人食い人種)等が記されています。

 この他に、英語はカリブの言語から、’cayman’  (カイマン、アリゲーター科のワニ)、’curare’  (クラーレ、南米の植物から採れる毒物)、’peccary’  (ペッカリー、ペッカリー科のイノシシの総称)、南米北東部のアラワク語  (Arawak)  から  ‘hurricane’  (ハリケーン)、’hammock’  (ハンモック)、’iguana’  (イグアナ)、’savannah’  (サバンナ、(亜)熱帯地方の大草原)、ハイチ語から、’canoe’  (カヌー)、そして中南米の言語であるナワトル語(Nahuatl、中米・メキシコの先住民の言語) から、’chocolate’、 ‘chilli’  (トウガラシ)、’avocado’  (アボカド)、’cocoa’  、’tomato’、’coyote’ (コヨーテ)、’ocelot’  (オセロット、南米の大型ヤマネコ)などの語彙が(その多くは他のヨーロッパ言語を通して)英語に加わりました。更にペルーでは ‘condor’  (コンドル)、’llama’  (ラマ、南米の高地で飼育されるラクダ科の動物)、’puma’  (ピューマ(アメリカライオン)、北米から南米にかけて生息する大型のネコ)、’cocaine’  (コカイン)、そしてブラジルからは、’cougar’  (ピューマの別名)、’juguar’  (ジャガー、北米から南米に分布する豹)、’piranha’  (ピラニア)等の語源となる言葉を獲得しました。

 この海賊達は、とりわけエリザベス女王の首に懸賞金を懸けたカトリック教世界の盟主たるスペイン国王を困らせたことで人気を博する英雄となります。当時海賊行為は愛国的なものでした。その呼び名は、’Freebooter’  から始まって時代とともに変わりますが(old sea-dogs は17世紀のものです)、彼らによる公海での略奪行為は本国の新聞で話題を集めることになりました。  ‘buccaneer’ (バカーニア)は、17~18世紀にかけてカリブ海を荒らしまわった海賊への身びいきから生まれた威勢のよいもう一つの表現です。

2. Pidgin and Creole

 1609年にはバーミュダ 諸島(Bermuda) においてEngland からの住民による定住が始まり、1624年にはそれがカリブ海のセント・キッツ島 (St Kitts,別名セント・クリストファー島)へと広がりました。この島で、英国は他のヨーロッパ諸国に習い奴隷制度を導入しました。タバコの栽培から始まり、より利益の大きい砂糖栽培の農場でアフリカ人の労働力を大量に必要とした結果、アフリカ系の言語が押しつぶされそうになりながらも細々と生き延び、やがてヨーロッパの言語との関係を深めていくカリブ海の言語の中に流入しました。16世紀の終わりまでに、アフリカ人の人口はヨーロッパ系住民の数を超え、次の世紀には大規模に膨れ上がりました。

 このシリーズの第8回の後半  Sold Down the River で既に触れましたが、奴隷商人たちはアメリカ向けの奴隷の輸送と同じく、西インド諸島にむけてもアフリカ人が結束して反乱を実行しないように異なった言語を話す者を一つのグループとして船に乗せました。この船の中で彼らは船員が話す英語を元にした、ある意味で英語形式の表現方法を用いることで言語的な連帯が始まりました。そして農場に到着すると、英国人のオーナーの下で働いたことを考慮すると当然のことですが、英語でのコミュニケーションの方法を見出すことになります。

 この英語を土台とするコミュニケーションは大き分けてく二つの方法によって行われました。一つがビジン 語 (Pidgin)  で、もう一つがクレオール  (Creole) です。ビジン語とは Cambridge History of the English Language   によると、薄められた(簡素化された)言語で、それは共通の言語を持たない人々相互の広範囲に及ぶ接触の結果生まれる言語です。この簡素化にはセンテンスを構成する語の数を減らすことや、語尾の変化のようなややこしい点を捨てることが含まれています。 ’two knives’  は  ‘two knifes’  となり、目的格の代名詞が主格として使われ  ‘him can read’  となり、名詞の複数系は単数名詞に  ‘dem’  を加えて表現する為、’the dogs’  は ‘de dog dem’  となり、動詞の用法も受動態は排除され、’the grass has been cut’  は ‘de grass cut’  と表現され、疑問文を作る場合には助動詞の  ‘do’  は省略され、’why you hit  him’  となり、形容詞が副詞の位置に置かれるため、’I do it well.’   が  ‘I do it  good.’  となります。

 ビジン語は生き残るために生み出された素晴らしく即効性のある簡潔な言語でした。これに対してクレオール語は、ビジン語を話した両親の子供たちが生み出した完全な機能を備えた言語でした。 その子供たちは、母国語としてのアフリカ系諸言語よりも両親が話すビジン語のほうがより使い勝手がよいと考えました。これを背景として彼らは事実上新たな言語と言えるものを創造していきました;即ち、ビジン語をよりすぐれた混合言語へと育てたのです。一部の言語学者は、この驚くべき奇跡的な早さ(わずか一世代)での文法的発展は人の先天的な能力によるもので、具体的には脳の一部に普遍的文法が組み込まれていることが理由であると信じています。しかし西インド諸島には、そのクレオール語とは全く異なった西アフリカ諸言語が究極的に帰属するニジェール・コンゴ語の直系であると考えている一群の学者も存在します。ここでの論点は表現の形式は英語から借用したものの、西アフリカ言語の文法構造で用いられているということです。

 University of West Indies  の  Hubert Devenish  博士はその事例を一つ紹介しています。クレオール語による  ‘Me run go school.’  は英語に  I ran to school.’  と訳されることになります。ここだけ見るとクレオール語による表現は粗悪で無学であるとされそうです。確かに ‘go’  は動詞として、’Me go there.’   (英語では、’I went there.’) のようにも使われます。しかし、’Me run go school.’  では  ‘go’  は前置詞の役割を果たしています。即ち、クレオール語では文法上の必要に応じて単に動詞を前置詞に転用したにすぎないのです。これは過去における英語の発展の過程で名詞が動詞に転化し、反対に動詞が名詞に転化したことと全く同じであると言えます。

 19世紀の終わりに、大工のサミュエル・マシューズ  (Samuel Matthews)  は彼が耳にしたクレオール語を、初めてその発音の即した形式で記述しました。

     Vos motter Buddy Quow?

  (What’s matter, Brother Quow?)    What’s the matter, Brother Quow?

     Aw bree Obeshay bong you.

    (I believe overseer bang you.)     I think the overseer hit you.

     You tan nosauby how.

     (You stand not koow how.)           You don’ seem to know how. 

     Daw boekra mon go wrong you, Buddy Quow.

     (That white man go wrong you, Brother Quow.)

     The white man is going to wrong you, Brother Quow. 

ここでは、’brother’  が西アフリカの言語の影響を受けて  ‘buddy’  となり、’overseer’  は  ‘obeshay’  となり、(各々の語を何度も繰り返し口にすると、なぜこのように変化したかを容易に理解できるはずです)、’what’  の一部である  ‘wh’  は  ‘v’  と発音され、’believe’  の中の  ‘i’  は  ‘r’  となり  (bree) 、’that’  の’th’  は ‘daw’  や ‘dow’ のように  ‘d’  で置き換えられています。多くのアフリカ系の言語に、”一音節には一つの子音と一つの母音のみで構成される”という規則があります。従って英語が子音を連結する場合、クレオール語はしばしば一文字へと間引きします。その結果、’stand’  を構成する、’st’  と ‘nd’ はいずれも一文字の ‘s’ と  ‘n’  となり、それらが結びついて、’tan’  が生まれました。英語の語彙にアフリカ語の文法を加えて新語である  ‘tan’  (stand)  の誕生です。 

 先述したマシューズや他の文献によって最初に記録された語彙として、’How come?’、”殴る” (to hit) を意味する  ‘bong’,'bang’、”邪悪な、悪い“を表す  ‘ugly’、子供のことである  ‘pikni’、”大きな”を意味する  ’grande’、”トラブル”や”論争”のことである  ‘palaver’  などもあります。

 カリブの諸言語の中でジャマイカで話されているクレオール語が最も深遠であるようです。その理由の一部としてそこに連れてこられたアフリカ人の数が非常に多かった点と、そこから多数が農場から逃れて丘陵地帯に隠れ住むようになり、早い時点で独特な言語群を発展させたことがあります。英語は優勢だったもののスペイン語の痕跡は残っていました。例えば脱走した奴隷達は、スペイン語で”野生の”、”飼いならされていない”を意味する ‘cimmarón’  が崩れた  ‘maroons’  (maroon  くり色の、えび茶色の)として知られていました。

 ジャマイカの英語の語彙はこれまでの伝統に則り、あらゆる人、あらゆる場所から取り入れます。まず、船員から  ‘berth’ 。 これは本来の投錨地、停泊位置といった意味から後に”(乗船員としての)仕事”のように職業上の地位を表す言葉となりました。次にスペイン語から  ‘parasol’  (日傘、パラソル)を、そして、セント・キッツ島でスペイン語から吸収した  ‘savvy’  (理解、実用的な能力)はジャマイカで  ‘sabi’  となり、  ‘sabi-so’  は  ‘wisdom’  (英知、賢明、知恵)を意味します。 ‘yard’  は  ‘slave yard’  のように、農場で奴隷が住む領域のように使われていましたが、やがてそれは一軒の家を意味するようになり(特にキングストンでは)、更にジャマイカ人達は非公式に島全体を  ‘Yard’  と呼ぶようになります。時にはアフリカ系の言語の直訳と思われる語彙も存在しています。”貪欲“を意味する  ‘greedy’  の代わりに、’big-eye’  が使われましたが、それは同様の意味を持つイボ語(Ibo、ナイジェリア南東部の言語)、チュイ語(ガーナ南部の言語)の語彙に相当するものです。

 ラスタ  (ジャマイカでの黒人運動、ラスタファリ運動の信奉者、’rasta’)  とは、旧約聖書からの要素と黒人としての意識向上の運動の性質を帯びたジャマイカのクレオール語に由来する言葉です。ラスタは、’I'   で’クレオール語の  ‘mi’  (me)  を置き換えます。’me’  は黒人の隷属の象徴と考えられています。 ‘I’  は尊敬と連帯を意味しその領域を広げていきました。 ‘I-lect’  はラスタによると、di-alectt  (方言)であり、’I-men’  は、A-men (アーメン)、’I-quality’  は、’equality’  (平等) のことです。一部の語彙は、’dredlocks’  (ドレッドヘア)のように若者の間で大流行しました。

 砂糖は、ビジン語やクレオール語の創造へと導いた商取引の分野における最も活発な触媒でした。そして砂糖はこれまでそれらの言語を話していた人々の苦痛についての言及を避け、その成果の最良の部分、ひょっとすると一番“甘い“部分についてのみ語ってきたこの章の最後を飾るにふさわしいと言えます。 ‘molasses’  (糖液)はポルトガル語が語源であり、砂糖を水に溶かした ‘sylup’  (シロップ) はこの時代に既に存在していましたが、砂糖製造の過程で生じる糖蜜を意味するようにもなりました。  ‘treacle’  は中世期には薬品(解毒剤)のことでしたが、新たに徴用されて(主に英国で)”糖蜜”を表す語となりました。

 西インド諸島では砂糖はアルコールの原料となり、様々な名前で呼ばれることになります。 この  ‘rum’  (ラム酒)は海軍の飲み物となり、1740年にヴァーノン提督はラム酒(アルコール度数が50~75という非常に”強い”酒です)を部下の兵士に提供する際、水で割るように命じました。彼は ‘grogram’  と呼ばれていた粗い繊維から作られたマントをいつも着ていたので、彼のニックネームは ‘Old Grog’   となりました。’grog’  はその後ラム酒の水割りのことになり、’groggy’  (日本語のグロッキー)は飲みすぎてふらふらの状態を表す言葉となります。

 

 次回、英語は南半球のオーストラリアへ向かいます。

 

To be continued.