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The Adventure of English 第14回

2013年12月31日

<  Advance Australia  >

 ”オーストラリア”はラテン語の  Terra Australis Incognita  に由来しています。これは「南にある未知の大陸」という意味で、古代ギリシアの時代以来存在した、南半球には北半球とのバランス上未だ発見されていない大陸があるはずだとの概念に基づいたものです。1770年に英国のジェイムズ・クック  (James Cook) はその伝説の大陸であった土地の探求を開始しました。クックが乗船したエンデバー号が錨をおろした地点は同行した植物学者 (botanist)  ジョセフ・バンクス  (Joseph Banks)  に敬意を表して、Botany Bay  と名付けられました。この新たな土地に対する命名、領有権の主張が始まります。

1. Penal Colony  「流刑植民地」

 英国人が本格的に定住を始めたのは、流刑植民地としての基礎を築く役割を担った723名の既決囚が到着した1788年に入ってからでした。疑いの余地なくここは歴史上最も重要で、肥沃で、成功した流刑植民地となりました。英国からの囚人を乗せた船は、夏の強い日差しで干からびていた Botany Bay  ではなく、より北の Port Jackson、現在の Sydney Harbour  (シドニー港)を目指しました。

 現地の言語との接触を典型的に表現し得る最初の事例が  ’kangaroo’  という名称です。この英国人の気晴らしとして目を楽しませた動物は、’patagolong’  と呼ばれていました。現地には相互に理解することが困難だと思われる250の言語がありました。カンガルーについても250通りの名前が存在した可能性があります。もう一つの可能性は、’kangaroo’  という呼び名自体が存在していなかったということです。エンデバー号の乗組員がその独特の動物の名前を尋ねた際、ネィティブ・オーストラリアンであるアボリジニ (Aborigine) の情報提供者は ‘I don’t understand what you’re asking.’  「私にはあなたの質問の意味がわかりません。」と答えたのですが、その返答が大雑把に  ‘kangaroo’  と翻訳されたのです。

  最初に英語が現地の言葉をまとまめて借用したのは、現在のシドニー周辺で話されていたダルーク語  (Dharuk)  からでした。 ‘boomerang’  (ブーメラン)、’dingo’  (野生の犬)、’koara’  (コアラ)、’wallaby’  (ワラビー、小型のカンガルー)、’wallaroo’   (ワラルー、中型のカンガルー)、’wombat’  (ウオンバット) などの動物の名前がその例です。とても楽しい借用例が、’cooee’  (クーイー、おーい) です。これはアボリジニがお互いに遠くから呼びかける言葉でした。”クーイー”はその後の数十年の間に幅広い場面で使われるようになります。その他に  ‘boobook’  として知られていたフクロウや、New South Wales 州の紋章となった木を表す  ‘waratah’  などもあります。英語にとってはアメリカでの経験と軌を一にしたものでした。ー即ち、英国人は母国語に固執したのですが、新奇なもの出合ったプレッシャーの下で彼らは先住民族の言葉を掠め取りました。5世紀後半に大ブリテン島に渡ったゲルマン民族(フリース人)と先住のケルト系住民との関係も似たようなものでした。

 アメリカの地名と同様に、英国人は母国の地名をオーストラリアにもたらしました。一つだけ例を挙げるとシドニーの北部は Newcastle  となり、その近郊の地名は、Northumbria  (ノーサンバーランド州の別名)にある Newcastle-on-Tyne  周辺の地名から採られたものが多数あります。

 既に何度か登場しましたが、’Abogininal’  という言葉を英国人が使い始めたのは定住を開始して以来約1世紀が経過してからでした。当初、新大陸で出合った先住民族は ‘Native Australians’  と呼ばれていました。 ‘Australian’   は”南の”を意味するラテン語の形容詞に由来します。 ‘Aboriginal’  もラテン語で“初めから、当初より”を意味しました。これは古代のローマ人が領土を拡大する過程で追い出した先住民を指す際に使われていました。先住民を表すアボリジニが一般的になるにつれて、英国からの定住者によって”オーストラリア人” (Austlian) という言葉が自らを示すものとして使われるようになりました。

 80年間に約十五万人の既決囚が地球を半周してオーストラリアへと送られました。興味深いことにこの数字は、5世紀の後半以降に大ブリテン島に侵攻したフリース人の数として考えられているものと同じなのです(第1回を参照)。その大半の刑は軽いものだったという記録があります。今日では裁判所に出頭さえすれば済むものや、地元で2、3日の奉仕活動で終わるようなケースです。彼らは新天地に適応できるように十分な医療的配慮を受けました。しかし二百年前のことですから情けはほとんど無用でした。刑罰とは神の懲罰であり同情の余地はありませでした。 ロバート・ヒューズ (Robert Hughes)  はその The Fatal Shore  という本の中に、窃盗犯、強盗犯、その他の(極)悪人が”島送り”となるのを喜んだ1790年のバラードを収録しています。その一部を見てみると、

     Some men say they have talents and trade to get bread,

     Yet they sponge on mankaind to get clothes and fed,

     They’ll spend all they get, and turn night into day-

     Now I’d have all such sots to Botany Bay

 

     There’s gay powder’d coxccombs and pound dressing fops,

     Who with very small fortunes set up in great shops.

     They’ll run into debt with designs nee’r to pay,

     They should be all sent to Botany Bay.

 

     食いぶちを稼ぐための仕事も才能もあるという輩がいる

  しかし奴らは衣服や食事を恵んでもらうべく善人にたかるのだ。

  奴らは稼いだ金を使い果すだろうし、その生活は昼夜が逆転するだろう―

  さあ、私がその屑どもを Botany Bay  へと送ってやろう

 

  厚化粧を施した伊達男や着飾っためかしやがいる

  そいつらはほとんど財産もないのに立派な店構えで商売をはじめるのだ

  返すつもりなど毛頭ないくせに意図的に借金をするだろう

  そいつら全員を  Botany Bay  送りにするべきなのだ

このバラードを読むと、現在でもオーストラリア人がスポーツの試合で英国人を打ち負かすことに喜びを見出すのは何ら不思議ではなくなります。

 流刑植民地という生い立ちから犯罪用語は苦も無くオーストリア人の語彙に入り込みますが、時がその忌まわしい過去を洗い流します。一部を紹介すると、アパートの部屋をシェアしていた友人を指すものとしてオックスフォード大学で使われ始めた ‘chum’  (親友、ルームメイト) はオーストラリアでは仲間の囚人のことになりました。母国では盗品を意味する  ‘swag’  は”身の回りの物の包み”になり、そこから自分の持ち物全てを包みに入れて放浪する  swagman’  (この後に”ワルツィング・マチルダ”で登場します)へと発展しました。

2. Waltzing Matilda

 もし英国人が階級制度をオーストラリアへ持ち込まなかったとすれば、それは奇跡と言ってよかったでしょう。しかし現地での状況は階級制度をより洗練させるとともに、より非情なものともします。囚人とオーストラリア生まれのその子孫達は ‘currency’  (現地通貨)と呼ばれ、それ以外の英国人は’pure streing’  (純正な本国通貨) と呼ばれました。前者はオーストラリアの訛りを発展させ、後者はLondon 的標準英語にこだわります。そして百回のむち打ちを意味する  ‘caning’、オオムギをたっぷり含んだ刑務所のスープを表す  ‘smiggins’  まずいパンである  ‘scrubby brushes’、鞭で打たれて気を失った者を意味する  ‘sandstone’  などをうっかり口にすると馬脚をあらわすことになりました。

 特筆すべき表現として ‘bloody’  (いまいましい、(強意的に)すごい、ひどい)があります。驚くには値しませんがそれは囚人のお気に入りとなり、その後オーストラリアで広く使われるようになりました。ある旅行者は、15分の会話でオーストラリア人が ”その嫌悪すべき言葉”を27回使ったと記録しています。そしてこの進取の精神に富んだ旅行者は更に計算を進め、50年間に1820万回使うことになるはずだとの数字をはじいています。

 方言、クレオール語(混合語)、非標準的な英語ではよくあることですが、体制側に非難されるものがしばしば誇りと好意をもって固持されます。その理由の一部としてそれらが正に体制側の目にはそのように映ることがあります。いわば体制側と対立することに自信を持つ”はみ出し者”の言語です。その言語は仲間内での気安さ、体制の転覆を目指す者の強さ、そしてその言語を使う仲間よって自らの為に作りだされたある種の自由を備えているのです。

 そのはみ出し者にとって、’convict’  (既決囚、囚人)という直接的な表現は、先述した ‘bloody’  という形容詞よりも彼らの怒りをあおることになります。 彼らは、’emancipist’  (刑期を終えた囚人)、’government men’  (政府機関(刑務所)の関係者)、’legitimate’  ((囚人として)正統なオーストラリア人)、’exile’  ((本意ではない)国外生活者、追放者)、’empire builder’  (大英帝国構築の一翼を担う者)などと呼ばれることを好みました。

 19世紀が進むにつれ、オーストラリアは国を挙げて自国の新しい訛りや鮮烈なスラングに愛着を感じるようになります。1880年にシドニーで出版されるやいなや、’Bushman’s Bible’  として知られることになる週刊誌、’the Bulletin’  は嬉々として、’fair dinkam’  (正直な、本物の)、’larrikin’  (ごろつき、ならず者)、 ‘bonzer’  (すばらしい)、’bloody’  、’offsider’  (助手、相棒)、’fair cow’   (とてつもなくやっかい、不快なこと)、’battler’  (庶民)、’bludger’  (たかり屋、怠け者)   などの語彙を使いました。又、新たなフレーズ造りにも長けていました。 ‘better than a poke in the eye with a burnt stick’  (ないよりはまし、直訳すると、目に焼けた串を通された(まる焼きの)豚よりはまし)、’as miserable as a bandicoot on a burnt bridge’  (ほんとに哀れな、直訳すると、燃えている橋の上にいるバンディクート(有袋類の動物)と同じぐらい悲惨である)などがその例です。彼らはそのアイデンティティを最も本質的かつ楽しめる方法で見出した国民でした。即ち、彼らが使い始め、その結果最初に彼らのものとなる語彙によって”オーストラリア人”となっていったのです。

 Bushman’s Bible  は19世紀の終わりから20世紀の初め(第一次世界大戦の前)までオーストラリアの文化や政治に強い影響力を及ぼし、その後影響力は徐々に衰退していきますが、20世紀の後半から News mgazine  として復活し、2008年の1月まで続きました。その Bushman’s Bible   は詩の分野にも手を広げ、その一つがオーストラリアの第二の国歌、オーストラリア主義の精髄となった ’Waltzing  Matilda’  (ワルツィング・マチルダ)でした。

 1895年にバンジョー・パターソン (Banjo Peterson)  がスコットランドの folk song (民謡)に詩をつけたこの曲は、Melvin  Bragg   氏   (The Adventure of English  の作者)によると、1940年代には、down under  (オーストラリアの俗名、地図の下の方にあるのでそうなりました) におけるのと同じぐらい England  北部の小学校で元気いっぱいに歌われていたそうです。オーストラリアはその時期までに、南部と比較すると生活水準が低かった英国北部(Englamd 北部とスコットランド)からの(囚人ではなく)移民の目的地となっていました。 Bragg 氏のように小学校で大声で歌う機会に恵まれなかった方(私もそうです)の為にその歌詞を紹介すると、

     Once a jolly swagman camped by a billabong

     Under the shade of  a Coolibar tree

     And he sang as he watched and waited till his billy boiled,

     You’ll come a-waltzing matilda with me.

               Waltzing Matilda, Waltzing  Matilda,

              You’ll come a-waltzing Matilda with me

              And he sang as he watched and waited till his billy boiled

             You’ll come a-waltzing Matilda with me

     Down came a jumbuck to dri-ink at that billabong

     Up jumped the swagman and grabbed him with glee

     And he sang as he stuffed that jumbuck in his tucker bag,

     You’ll come a-waltzing Matilda with me

     Up road the squatter, mounted on his thoroughbred

     Down came the troopers, one,two,three

     ‘Who’s  that jolly jumpbuckyou’ve got in your tucker bag?

      You’ll come a-waltzing Matilda with me. ’      

     Up jumped the swagman and sprung into that biilabong

     ‘You’ll never take alive’ said he

     And his ghost may be heard as you pa-ass by that billabong

     You’ll come a-waltzing Matilda with me

そのむかしある陽気な放浪者 (swagman) が池  (billabong) のそばで野宿をしていた

クラーバー(ユーカリの木)の木陰で

彼は景色を眺めながら、そしてブリキ缶  (billy)  の水が沸くのを待ちながら歌っていた

一緒に身軽な旅 (Waltzing Matilda)  をしようじゃないか

          身軽な旅を、気軽な旅を

   一緒に身軽な旅 (Waltzing Matilda)  をしようじゃないか

   彼は景色を眺めながら、そしてブリキ缶の水が沸くのを待ちながら歌っていた

   一緒に身軽な旅 (Waltzing Matilda)  をしようじゃないか

その池に水を飲みにヒツジ  (jumbuck)  が一匹ひょっこりやってきた

放浪者はよだれを流してそのヒツジに襲いかかった

彼は歌いながらヒツジの残りをズタ袋  (tucker bag)  の中にしまった

一緒に身軽な旅 (Waltzing Matilda)  をしようじゃないか

ヒツジの持ち主の農場主  (squatter)  がサラブレッドに乗ってやってきた

ついでにおまわりも、一人、二人、三人

”その袋の中のヒツジが誰のものだと思っているんだ”

一緒に身軽な旅 (Waltzing Matilda)  をしようじゃないか

放浪者はその池に飛び込んでしまった

”おいらは生きたままでは絶対につかまらないぜ” 彼は言った

その池のそばを通る時には幽霊となった彼の声が聞こえるかもしれないよ

”一緒に身軽な旅 (Waltzing Matilda)  をしようじゃないか”

 

* matilda  とは(携帯用に)巻いた寝具のことで、Waltzing  Matilda  とは旅に出ることを意味しています。

* Youtube で様々な Waltzinng Matilda  を聞くことができます。

 ヒツジを盗むことは、飢えをしのぐ最後の手段として England  では主要な、そして古来からの犯罪でした。それは England  では歴史の幕を閉じましたが、かつてのオーストラリアで最後の役割を見出したことはこの歌にとって幸いでした。そしていさぎよく権力に反抗的な結末も見事です。ワルツィング・マチルダはヒツジの窃盗という犯罪をほとんど英雄的行為、権力に対する自立宣言、死に値する行為に変えてしまいました。

 

3. Australian Way

 オーストラリアの言語に対する喜びは衰えを知りませんでした。1965年にオーストラリア人とその発音を祝福する、Afferbeck Lauder  による  Let Stalk Strine  (strine  はオーストラリア訛りの英語、Let’s talk strine  のもじりでしょうか)が出版されました。そこには、’gonnie’  (’ do you have’  の意味で、’Gonnie apples?  のように使います)、’harps’  (’half past  two’  は  ‘harps’  となってしまいます)等が含まれていました。その他の例を見てみると、’pokies’  はスロットマシーンのことで、’drongo’  はまぬけな人、 ’no-hoper’、と、’gutless wonder’  は、完全に明白、を意味しました。最後に、’a pom’  とは英国人のことで、オーストラリアでは一般に嫌われていますが、Bragg 氏と彼の多くの知人の経験によれば、今もなお遠縁ではあるけれども一応の縁者として認められているそうです。

 オーストラリアの街でそして荒野で現実に使われていた言葉が、これこそがオーストラリア英語なのですが、辞書に掲載され始めたのは1970年代に入ってからでした。 ‘Macquarie Dictionary’  は終に立派なハードカバーの辞書にそれらの語彙を収めました。ここでもほんの一部を紹介すると、

     Boofhead: a large stupid fellow, named after a character in a cartoon strip in the Sydney Daily Mirror, from 1941, and derived from ‘buffalo head’

 大きくてまぬけな男、シドニー・デイリー・ミラー紙で1941年から始まったマンガの登場人物。そしてそれは “バッファロー・ヘッド”(柳生の頭)からきている。

     Druthers: corruption of  ‘I’d rather’  =  choice, preferrence, as in ‘If I had my druthers,  I’d be in bed.’

   ”選択、好み”を意味する ‘I would rather’  が崩れたもの、”もしかまわないなら、寝たいんだが”のように使う。

     Woser: a killjoy or spoilsport, supposed to be an acronym of ‘We only want social evils remedied.’, a slogan coined by John Norton, journalist and politician (1862-1916)

 興ざめ、座をしらけさせる人、”我々は社会悪を矯正したいだけである“ というジャーナリスで政治家だったジョン・ノートンが思いついたスローガンの頭字語(各語の先頭の文字を繋い語)であると考えられている。

 独特の語彙や ‘druthers’  のように言葉を短縮してしまうことに加えて、オストラリア英語の特徴として、語尾に  ‘o’ や  ‘ie’  を加えることもあります。波止場  (wharf)  で働く人は  ‘wharfie’  となり、’musician’  は  ‘muso’、’mosquite’  (蚊)は ‘mozzie’  となってしまいます。このような語尾は嘲笑の対象になりそうですが、同時に ”親しみやすく”もあります。語尾に ‘o’,'ie’  を付ける基準ともいうべきものは言語学者にもわかっていないようです。

 多くの外国人にとって、オーストラリア英語の最も顕著な特徴はそのアクセント(抑揚)にあります。これはオーストラリアの権威筋にとって長い間悩みと困惑の種でした。1911年に、Valerie Desmond  は、その著書の ‘Awful Australian’  (恐るべきオーストラリア人) の中で、「来訪者の耳に不快なのは、突飛な発音そのものというよりも、表現の尋常ではない抑揚である。教養ある穏やかな会話のようなものはこの国には存在しない。誰もがその発言をあたかも出来の悪い発声法の教師に続いて中身のない詩を暗唱しているかのようにがなっている。」と述べています。

 TV ドラマ、スポーツ選手、作家を通じてオーストラリア人は今や無意識のうちに誇りを持ち、その話し方においても自信がみなぎっていると世界から見られているようです。オーストラリア英語は若々しく、活力があり、ひねりがきいています。Melvin Bragg  氏の意見では彼らがこれまでに、とりわけ巨大なエネルギーを噴出させた過去の2世代を通じて成し遂げたのは、母国の束縛から逃れながら、その一方で母国が彼らに与えた言語の核たる部分をしっかりと手放さずに、それをオーストラリア流に変えたことなのです。

 

このシリーズもあと2回で完結します。

 

To be continued.