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The Adventure of English 第5回

2013年10月30日

 まずは今回の時代背景となる中世におけるカトリック教会の位置付けについてのおさらいからです。 

 中世期の社会構造を説明するのに楕円の図がよく用いられます。楕円であるのはその中に精神の領域、世俗の領域という二つの世界が存在し、それぞれがその中心(焦点)を持つということを明らかにするためです。前者の中心にはローマ教皇が位置し、後者の中心には皇帝や国王のような封建主義の頂点に立つものが位置します。この図のひな型はキリスト教がその国教となった古代ローマ帝国末期には既に完成していました。しかしローマ帝国が東西に分裂したのち(395年)西ローマ帝国が滅びると(476年)、西欧では(西)ローマ皇帝という長い伝統に裏付けられた権威を失うことによって、先述した楕円の内部で世俗の領域の中心が求心力を弱めた結果、相対的に教会の力、影響力が強くなっていきます。

 帝政ローマの時代に五つあった総大司教座のうちの一つにすぎなかったローマは、他の四つがすべて東方(東ローマ帝国内)に位置してこともあり、又、ローマがキリストの使徒パウロの殉教の地であったことにより、ローマ教会は西欧において最高の権威をもつようになります。ローマの総大司教は教皇と呼ばれ(この称号自体は3世紀から使われていました)、「キリストの代理人」を自任するようになります。 このようにして東方教会(後のギリシア正教、ロシア正教、セルビア正教等)とは別個の存在としてローマ・カトリック教会が成立しました。

 ローマ教皇カリストゥス2世は、古代末期以来封建領主が握っていた領内の聖職者の任命権(聖職叙任権)を教会が持つことを神聖ローマ皇帝に認めさせましたが(1122年、ウォルムス協約)、それに至る過程で教皇グレゴリウス7世は、対立していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世への対抗手段として元々はキリスト教の教義に反する者を締め出すための手段だった「破門」を言い渡しました。「破門」されると宗教的な保護が受けられなくなるだけではなく、他の信徒との社会的接触も禁止されるため、破門の宣告は教皇が世俗の最高権力者の地位をも左右できる伝家の宝刀となりました(ハインリヒ4世が教皇の許しを乞う為に、雪の中三日間立ち尽くしたのが”カノッサの屈辱”(1077年)です)。

 ”神の言葉”を記したものは一般の信徒には読めないラテン語で書かれた聖書以外存在しなかったため、教会は”神の言葉”を解釈する権利を独占することになります。これは神の恩恵は教会を通してのみ享受できることを意味し、決して楽とは言えない現世の生活の中でいわば”天国へのパスポート”(そしてそれと表裏一体の関係にある”地獄へのパスポート”)を事実上排他的に取り扱う教会の影響力は絶大となり、日常生活のあらゆる局面にまで及んでいました。

 経済面では西ローマ帝国の時代から農作物などの収穫の十分の一を教会に奉納する習慣が始まり、779年にはフランク王国のシャルルマーニュ(カール大帝)が勅令によって十分の一税として制度化しました。この定期収入に加えて多くの封建領主が一つには信仰心から、更には“天国へのパスポート”を確保すべく土地などを教会に寄進し、又、十字軍に参加する費用を捻出するために土地を教会に譲渡した結果、教会は広大な土地の所有者として経済的にも封建領主に匹敵する社会的勢力になりました。

 このように、中世における教会の権力は現在では想像することすら困難な程強力なものとなりますが、教会が精神世界の中心という本来の役割から逸脱して世俗(政治、経済)の分野へ介入し始めたことで、「権力(の集中)は腐敗する」という人類が高価な代償を払って獲得した教訓がそのまま妥当するようになります。

 とりわけ中世末期、いわゆるルネサンスの時代になると教会はその外観や内部を絵画や彫刻で装飾するために、そして貴族化(世俗化)した教皇を含む高位聖職者の贅沢な背活を賄うために莫大な費用を必要とするようになります。その資金調達の手段として使われたのが聖職売買と贖宥状(免罪符)の販売でした。この状況をあるジャーナリスト兼歴史家は次の言葉で表現しています。「(15世紀後半から終わりにかけての)教皇ニコラウス5世、ピウス2世、シクストゥス4世の時代にルネサンスが教会堂の中に入っていきました。しかし神は教会の裏口から去ってしまいました。」

 前回の最後に”英語対ラテン語”と表現しましたが、言語はあくまでコミュニケーションの手段に過ぎないという点は現代もこの時代も同じです。実際の争いは神の言葉を自国の言葉で伝えたいとの信念に基づいた今回登場する John Wycliffe (ジョン・ウィクリフ)、William Tyndale (ウィリアム・ティンダル)やその支持者と、ラテン語による神の言葉の純粋性を守り、更には教会が持つ様々な特権を維持したいと考えた聖職者及びこれに同調した当時の権力者との間に起こりました。

 前置きが長くなってしまいましたが、これは私も含めて日本人には(更には現代の英国人にさえ)理解しがたいことかもしれませんが、これから登場するウィクリフやティンダルが文字通り命をかけて争った相手がいかに強大であったのかを認識して頂く為です。それでは今回の本編に入りましょう。

<  God’s English  >

1.John Wycliffe

 1517年に始まったドイツのマルティン・ルターによる宗教改革に先立つこと約150年、14世紀の中期にウィクリフは”神の言葉”を一般民衆が理解できる自国の言語で伝えるためにその生涯を捧げました。当時英語で書かれた聖書は存在しませんでした(聖書の極一部は古期英語に翻訳されていました)。ラテン語から英語への翻訳を教会は禁止し、あえて取り組もうとすると常に”異端”と宣告される恐れがありました。それをものともせず、ウィクリフは密かに彼が教鞭をとっていたオックフォード大学でラテン語で書かれた「ヴルガータ聖書」(当時の標準的聖書)の英訳を同僚の助力を得ながら終えました。

 ウィクリフによる英語の聖書は170が現存しています。筆写だけがコピーの手段だった状況下で、そして多数が官憲によって押収されたことを考慮すると、これだけの数が残っているということは多数の人間が組織的に筆写、そしてその英訳された聖書の伝搬に関与していたと考えられています。ウィクリフとオックスフォード大学の協力者のみで始まった英語の聖書をできるだけ多くの民衆に届けるというキャンペーンは、すぐに多くの一般信徒が加わるようになったのです。ウィクリフの支持者達はロラード (Lollards, ”つぶやく”から由来しているそうです) と呼ばれました。

 ウィクリフは聖書の英訳を進めただけではなく、腐敗していた教会への攻撃も開始しました。ウィクリフはローマ教皇の存在を含めて何であろうと聖書に記されていないことを是認しませんでした。教会ではなく聖書を信仰の基盤とすることは後にすべてのプロテスタント(新教)の原理・原則となりますが、宗教改革を成し遂げたマルティン・ルターの「聖書に書かれていないことを認めるわけにはいかない。私はここに立っています。」という言葉は、ウィクリフが14世紀後半に抱いていた信念そのものと言えるのではないでしょうか。

 当初ウィクリフを非難するだけに止めていた教会も、英語の聖書が広がりつつあることに気づくと1382年の教会会議でウィクリフをあからさまな異端であると宣言します。そして彼の支持者(ロラード)も逮捕、処刑の対象となりました。何百人ものロラード達が捕えられ、拷問にかけられた上で処刑されたといわれています。教会会議は後に議会にも働きかけて、聖書の英訳は違法となりました。ウィクリフは逃亡生活の果てに1384年の最後の日に亡くなります。

 一般の信徒にも読める聖書を創り出すことを意図していたものの、ウィクリフの英訳はあまりにラテン語的であるとの批判があります。ラテン語の持つ権威を畏怖したためか翻訳は逐語的になされました。この英訳によって新たに数千 のラテン語の語彙  (profession, multitude, glory, etc)  が英語に入ってきました。更に語順も英語の語順よりもラテン語の語順を優先させた箇所もありました。

 しかしその一方で、birthday, communication,crime, envy, humanity, injury, novelty, 等多数の語彙がウィクリフによって創造されました。humanity を代表的な例として、ウィクリフが創造した語彙は時の経過とともに新たなニュアンスや意味を帯びることになります。

 ウィクリフの死後も、英語の聖書を所持することだけで違法とされたにも拘わらず、その聖書は筆写され、より多くの信徒の手に渡っていきました。ウィクリフの死後約20年が過ぎた1412年、カンタベリーの大司教はウィクリフの英訳聖書をすべて没収し燃やすよう命じました。1428年にはウィクリフが万が一にも”復活”しないように彼の遺骨が墓地から掘りおこされ、燃やされた後にその灰はAvon 川の支流である Swift 川に流されました。

 まもなく一人のロラードの預言者が次の詩を英語で残します。

                          The Avon to the Severn runs,

                          The Sevren to the sea.

                          And Wycliff’s dust shall spread abroad

                          Wide as the waters be.

2.William Tyndale’s Bible

 ウィリアム・ティンダルは、ウィクリフと同様にオックスフォード大学で学究の道を歩むと学者であり、叙任された聖職者でもありました。1524年に30歳のティンダルが  England 国王ヘンリー8世と大法官で枢機卿のウールジーによるウィクリフの英訳聖書に対する厳しい取り締まりが続いていた England を去って(二度と戻ることはありませんでした)新たな居住地となったドイツのケルンにおいて一人で聖書の英訳を始めた頃、ドイツではルターに共感を抱く諸侯、、市民、そして農民の数は急速に拡大しつつありました。 

 ティンダルはウィクリフがラテン語で書かれた聖書を英訳したのとは異なり、オリジナルの古ギリシア語、ヘブライ語からの翻訳を進めました。彼にとって幸いなことに、ウィクリフの時代には存在していなかった活版印刷の力を借りることが可能でした。

 2年後、ティンダルが英訳した6千冊の聖書が印刷されました。彼にその資金的援助を行ったのは、ティンダルが家庭教師をしていたロラードである新興の裕福な毛織物商人だったといわれています。6千冊の聖書は England に向けて船で送られましたが、ヘンリー8世とウールジーはスパイからの情報でこのことを察知していました。その聖書を押収すべく海軍による沿岸の警備が強化されましたが、数十、やがて数百と警戒網をすり抜けました。その後一万八千冊が新たに印刷され、そのうち六千冊が当局の押収を逃れて England へ届き、都市から都市へ、大学から大学へ、更に一般民衆の手に渡っていきました。

 この The Adventure of English の著者である Melvyn Bragg 氏はティンダルの英訳をいくら称賛しても称賛しすぎることにはならないとコメントしています。その見事なリズム、簡潔な表現、文章の明晰性は現代の英語にも深く浸透していると言われています。今もよく使われている ‘Let there be light’, ‘ fight the good fight’, ‘ the apple of his eye’, ‘ a man after his own heart’, ‘ sings of the times’, ‘eat, drink and be merry’,  ‘broken-hearted’,  ‘clear-eyed’  を始めとする数百に及ぶ表現がティンダルの聖書に由来しています。

 England を離れてからのティンダルの生涯はヘンリー8世やカトリック教会の追手から逃れることに費やされました。アントワープで知り合いになったEngland 人(カトリックのスパイでした)による通報で捕えられたティンダルは、1536年に異端と宣告され同年の10月6日に処刑されます。最後の言葉は ’Lord, open the King of England’s eyes!’   でした。

 皮肉なことに、その2年前にティンダルの母国 England では状況が大きく変化し始めていました。国王ヘンリー8世はカトリック教会の最大の擁護者であるスペイン出身の王妃との離婚を認めないローマ教皇と袂を分かちました (The Church of England の成立、1534年)。 カトリックとの関係では新教に分類される The Church of England (英国国教会)は、国王がローマ教皇に代わり教会の最高位 (Defender of the Faith) に立つ点を除くと教義の上でカトリックとの差異は見出せませんが、(一応)プロテスタントの原理・原則に則ってヘンリー8世はそれまでとは一転して聖書の英訳を公認するようになります。1535年にはティンダルの聖書を手本とした最初の”合法的な”英語の聖書が国王に上程されました。1536年にヘンリー8世は神聖ローマ帝国内のルター派の諸侯との同盟関係を築く為に交渉を開始しますが、” England 国民の聖書”の実現に最も貢献したティンダル(ハプスブルグ家(カトリック)が支配していた現在のベルギーで囚われの身でした)のことを気にかけたという記録は残っていません。

 その後数多くの英語による聖書が出版された為、17世紀の初めに国王ジェームズ1世は標準となるべき聖書の編纂を命じました。ティンダルがたった一人で、そして2年で英訳を成し遂げたのに対して、54人の翻訳者達が約5年の年月をかけて”欽定訳聖書”は完成しました。ティンダルが創造した語やフレーズの84%が新約聖書の欽定訳聖書にほとんど手を加えられることなく採用されました。編纂に携わった翻訳者達がティンダルの翻訳があまりに素晴らしかったことで変更をためらったとも、若しくは既に80年が経過し、欽定訳聖書が刊行された当時(1611年)においてもかなり古風に感じられたティイダルの文体を聖書の格式にふさわしいと判断した結果、意図的に変更しなかったとも言われています。

 我々が原稿を推敲する際、適切なリズム、バランス、そして内容を持つことを確認する為に何度も何度も大きな声でそれを読んでみなさいといわれます。英語の聖書はこれまでしばしば(プロテスタントの)牧師のための聖書であるとされてきました。それは神の教えを自国の言葉で信徒に語りかけ、そして広めていく為に書かれたことを意味します。これこそがジョン・ウィクリフ、ウィリアム・ティンダル、更に何百人もの勇気あるキリスト教徒がそのために生き、そして死んだ大義に他なりませんでした。

      In the beginning was the Word, & the Word was with God, and

               the Word was God.

     The same was in the beginning with God.

     All things were made by him;

     And without him was not anything made that was made.

     In him was life, and the life was the light of men.

     And the light shineth in darkness,

     and the darkness comprehended it not.

     And the word was made flesh. and dwelt among vs.

 

 ロラードの予言は実現しました。英語はとうとう神を味方につけます。英語は全能の神自身によって承認されたのです。次回はウィリアム・シェイクスピア生み出す背景となった(北方)ルンサンス期における英語がテーマとなります。

 

To be continued.